前例のないことといえば、中宮の定子のことを、一条天皇が寵愛し続けることにも、実資は物申さずにはいられなかった。というのも、定子は兄・伊周の不祥事の責任をとり、すでに出家した身だったからだ。
一条天皇の働きかけで、定子が職曹司(しきのぞうし)に移ると、実資は長徳3(997)年6月22日付の日記に「今夜、中宮は、職曹司に参られた。宮中の人々はよくは思わなかった(今夜、中宮、職曹司に参り給ふ。天下、甘心せず)」と不穏な雰囲気を表現。
同日の日記に「中関白家の人々は、中宮定子は出家していないと主張している(彼の宮の人々、出家し給はざるを称す)」と記し、強引に中関白家が定子の出家をなかったことにしようとしていると暴露した。
そんな定子が長保元(999)年11月7日、一条天皇との間に第一皇子(敦康親王)を産むと、世間はさらにざわつくことになる。実資は同年同日の日記に「世に横川の皮仙と云う(世に云はく、横川の皮仙と)」と記録している。
「横川の皮仙」とは比叡山横川の僧・行円の呼び名である。行円が、比叡山の横川でつねに鹿の皮衣をまとってちまたで庶民に教えを説いたことから、「出家らしからぬ出家」という意味で、定子の状況に皮肉を言っているのだ。世間の声としながらも、実資も同意するところだったのだろう。実資が言い出して広まったのではないか、という気もしなくはないが……。
「是々非々」のスタンスを貫く
その一方で、定子が第2子出産のため、職曹司から出御したときには、やや意外なスタンスをとっている。
行啓当日に道長は、人々を引き連れて宇治遊覧に出かけた。定子の懐妊を盛り上がらせないために、道長があえてやったことに違いないが、実資はこの道長の行動を批判。「行啓を妨害しているようなものだ(行啓の事を妨ぐるに似る)」と憤慨している。
すでに出家したはずの定子に対する、異例ずくめの一条天皇の振る舞いには思うところがあるが、それでも行啓を妨害するのは間違っている……とし、ほかの多くの公卿のように、道長におもねることはなかった。
「是是非非」のスタンスで、良いことは良いとして賛成し、悪いことは悪いとして反対する。そんな実資だからこそ、周囲も一目を置いたのだろう。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら