道隆の強引なやり方に、実資は正暦元(990)年9月27日付の日記に「驚き奇(あや)しむこと少なからず」と書いて呆れている。
3日後の30日付の日記には「皇后4人の例は、今まで聞いたことがない(皇后四人の例、往古聞かざる事也)」とも書いた。この異様さを後世に残しておかねば、という実資の強い意志が伝わってくる。
道長にも恐れずに命に逆らった
実資がとりわけ嫌ったのが「前例にないことをする」ということだ。長保元(999)年、道長の娘・彰子が12歳で入内したときにも、実資の「物言い」が発動する。
このとき、道長は自身の日記に「四尺屛風和歌令人々読」と記すように、4尺の屏風に和歌を集めて、入内する彰子に持たせようと考えた。幼少期から学問を好んだ博識な一条天皇の気を引こうというわけだ。
人気絵師の飛鳥部常則(あすかべのつねのり)に屏風絵を描かせると、選りすぐりの歌人が詠んだ和歌を、名書家の藤原行成が書いてその屏風に貼る……というビッグプロジェクトである。歌人には、藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢らのほか、「詠み人知らず」というかたちで、花山法皇までが加わった。
だが、実資は道長から再三依頼されても、和歌を献上することを拒んだ。「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」というのが実資の理屈である。同年10月23日の日記に「公卿の役は、荷担ぎや水汲みに及ぶのか(上達部の役、荷汲に及ぶべきか)」と不満をぶつけた。
その怒りは、道長だけではなく、取りまとめ役の俊賢にも向けられたようだ。後年に「貪欲、謀略その聞こえ高き人」(寛弘8〔1011〕年7月26日)と、権力者におもねる俊賢のスタンスを批判している。
彰子がらみの重要なイベントということでいえば、正暦元(990)年12月、彰子が3歳になったときの「着袴の儀」も実資は欠席している。
何か思うところがあったかと思いきや、そうではなかった。単に連絡の行き違いがあったようで、翌日、道長が不快感を持っていたと耳にして、実資は慌てて謝罪に行っている。
数年前のこととはいえ、そんな経緯があれば、道長からの依頼は少しくらい意に沿わなくても受けてしまいそうだが、「それはそれ、これはこれ」と切り離して考えるのが、なんとも実資らしい。
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