敗戦の2週間後に三重県の家族の疎開先に帰りました。でも、両親は焼け出され、弟妹はまだ小さい。自分が稼がないと一家で餓死する。何の当てもなく、翌朝一番の汽車で大阪へ出ました。
大阪ではもう闇市が立ち、食べ物や古着、鍋釜を売る人、買う人がいっぱいいた。ここで食料品の商売をしようと考えました。まず、復員するときに支給された飯盒(はんごう)や雑嚢(ざつのう)、水筒などを売り、当面の資金としました。その後、魚の行商などをして本格的な事業資金を作りました。
事業を軌道に乗せるまで、いろいろな人に助けてもらった。何もない若造でしかない僕を多くの人が信頼してくれた。戦争に負けて、世の中どうなるかわからないときに、僕のような向こう見ずが飛び込んできて、いろんな話をするのが珍しかったのでしょう。年長者が手の平に乗っけてくれた。僕も取り入ろうという野心もなく、天衣無縫だった。
自分の都合だけで行動することはない
闇商売で何回か警察に捕まった。後に、東京でパイナップルやバナナの貿易を始めたときも、警視庁や東京地検に事情聴取された。だが、隠し事をせず、ありのままを話したら、一回も罪に問われなかった。生きていくための闇商売は別にして、法に触れることは絶対にやらなかった。筋が通らないことには反対してきた。自分の損得ではなかったからでしょうか、対立した人とも信頼関係を築くことができた。
中曽根康弘さんとは仲がよかったけど、彼が提出した売上税には反対しました。もともと物品税の拡大だったのが、大蔵省(現財務省)や経団連などの圧力で公約違反の売上税になった。それは筋が通らないと考えたので反対したのです。ですが、売上税で激しく戦っていた大蔵省主税局の連中とも、夕方6時以降はお酒を飲んでいた。昼間は意見対立するけど、それが済んだらわだかまりなく、天下国家を語り合う。それが楽しかった。
大店法(大規模小売店舗法)では通産省(通商産業省・現経済産業省)を、容器包装リサイクル法の裁判でも複数の省庁を訴えて法廷で争った。今もパートタイマーの年金や健康保険の問題では、公聴会で意見を述べたりしている。僕が主張をするのは、公平性を欠くなど問題があるから。僕が損をするとか得をするというのは関係ないのです。
戦争で多くの友人を亡くしたし、自分自身も死ぬ運命を何度も助かっている。85歳を過ぎて、目の前に冥土が見えてくるのに、自分の都合だけで行動することはないよ。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら