宮中の「ぞっとするいじめ」裏にある"女房の対立" 皮肉交じりの贈り物を受け取った左京の君
紫式部の日記を読んでいると、明るい場所などで他人にはっきり顔や姿を見られることは恥ずかしい、との考え方があるように感じます。これは紫式部が内向的な性格だったから、というのとはまた異なる理由があったように思います。
舞姫を見て(なんと平然としたことか)と感じた紫式部ですが、(他人事ではない)とも感じていました。
自分(紫式部)はただ、殿上人と対面する位置にいて、紙燭(小型の照明具)を向けられていないだけ。舞姫の周りには幔幕(まんまく:横に長い幕)が張られているけれども、皆、舞姫だけを見ているのではなく、全体を見ているかもしれない。
いろいろと想像すると、紫式部は「胸が詰まってきた」ようです。
中宮の御座所には、帝(一条天皇)の姿も見えました。北の遣り戸(引き戸)には殿(藤原道長)もこっそりとやって来ています。
そうしたこともあり、紫式部の心はさらに緊張したのでしょう。「好き勝手できず、気詰まりだ」と書いています。
心配しながらも、童女をじっくり観察
五節の行事はまだまだ続きます。11月22日には五節の行事の1つ「童女御覧」と呼ばれる行事が行われました。これは五節の舞姫の付き添いの童女と下仕えの女房を清涼殿に召して、天皇が御覧になるというもの。
紫式部はこの童女御覧についても日記に記し、天皇と対面する童女の思いに寄り添っています。「童女たちの気持ちは平静ではないだろう。どんなにドキドキしているであろう」と。
童女たちが並んで入ってくるのを見た紫式部は、もうそれだけで胸がいっぱいになり、見ているのがつらくなってしまったようでした。
そして舞姫の時と同じような気持ち(このように明るい昼に、顔を隠す扇を持たず、多くの見物人の前にさらされる童女たち。どれほど怖気づいているだろう)を抱くのです。紫式部にとって人から見られることは、恐怖にも似た羞恥心があるようですね。
一方で童女の心中を思いやりながらも、「藤宰相の童女は、小憎らしいくらいすてきだ」とか「丹波守の童女は、顔かたちもそう整っていない」「宰相中将の童女は背が高くて髪がきれいだ」と、紫式部はそれぞれの童女をじっくり観察していました。
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