謎の多い「博士課程」、経験者が語る本当の価値 知識を「学ぶ」のではなく「作りに行く」場である

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博士課程において、「学生=遊んでいる」という概念は通用しない。博士課程は研究、つまり思考と実践と修正に絶え間なく取り組む期間である。大学院生(生物学系の場合)がやらなければならないことをざっと挙げると、

・論文の執筆(もちろん英語)
・最新研究のチェック(つまり英文論文を毎日読む)
・実験やシミュレーションの設計、準備、そして実行
・得られたデータの解析(プログラミング)
・データの解釈や結果のインパクトの検討(これまでの研究とどう違い、どこが面白いか)
・ゼミの資料作成とそのための文献検索やミーティング
・研究材料の日々のお世話(大崎のクチキゴキブリのように飼育する生物がいる場合)

となる。つまり、職業として研究している研究者と何ら変わらない、研究に身を捧げる毎日を送っている。大学での研究の実務を一番担っているのは実は学生だ。それなのに「博士課程なんて何してるかわからない。学生期間を延長して遊びたいだけでしょ?」なんて思われていたら悲しいことこのうえない。

それに、博士課程は受け身で「勉強」しに行くところではない。「研究」しに行く場所だ。「勉強」がすでにある知識を習得することだとすると、「研究」は知識を創造する行為である。

私は博士課程の経験者の一人として、

「博士課程に行って本当によかった」

と思っている。これは、研究者にならなかったとしても変わらないだろう。

博士号は国際的なライセンス

研究する中で勃発する問題やトラブルは、徹頭徹尾、自分事である。論理的に考え、解決策を導き出し、実践し、問題を解決することを否応なしに経験させられる。論理的思考力や問題解決能力が徹底的に鍛えられるのだ。

博士課程とは将来、自立した研究者になるための課程であるといえる。博士号を取得することで「この人は、研究ができる――つまり、論理的思考力も問題解決能力も企画立案能力もあります」という国際的なライセンスが得られる。

海外では、研究職に就いていなくともDr.(ドクター)の肩書を持っていると一目置かれるのはそのためだ。今日の日本では、海外のように博士に対する尊敬がなく、非常に残念なことである。博士号を持っていても就職時にほとんど優遇されず、ただ年齢だけが上になることでかえって採用されにくいという悲しい話も聞く。

ムッツリと研究ばかりしているコミュ障集団が、博士卒の典型と思われているのだろうか。しかし研究はコミュ障の逃げ場ではない。研究する中で培った多くの能力を彼らは身に付けているはずだ。

自身の研究アイデアを向こう数年にまたがるプロジェクトとして立案し、申請書で明瞭に説明しなければ研究資金は獲得できないし、実験で行き詰まれば打開策を考え実行する必要がある。また、論文を書くには他の研究者が納得するよう論理的に考え、表現する力が必要になる。これらの総力戦が研究だ。

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