「看護師辞めて"55歳アイドル"へ」驚きの転身人生 中原さくら「30年間務めたけど…」大胆決断の訳

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観劇に目覚め、推し活をしていたことが、その後に活きてきた(写真:尾形文繁)

いわゆる推しは、早霧せいなさん。舞台に足しげく通い、時には涙した。そんなファンとしての活動、いわゆる推し活を続けてきた。

いったいなぜこんなにすごいものに今まで気がつかなかったのだろうと、これまでのすすめを無視してきたことを悔やんですらいた。

実はこれには中原の家庭環境が大きく影響している。

「作曲家の父」と「音楽にあふれた家庭」で育つが…

「父が作曲家で母も作詞なんかをやっていて、とにかく音楽がずっとかかっている家で育ちました。だから、当時の昭和歌謡とかクラシックなんかも、いろんな音楽を自然と聞いてましたね。でも私は松田聖子ちゃんが好きだったんですが笑」

父は狩人のヒット曲『アメリカ橋』などを手掛けた作曲家の信楽順三。

当然、家には当時普通の家にはないような量のレコードにあふれ、テレビなども最新のものがあった。十分に裕福な家庭環境と思われるが、中原は幼心に安定したものを欲していた。

「やっぱり子どもでも、なんとなく収入に落差があるんだろうなってわかるんですよね。両親は厳しくて、私自身は『うちは貧しいんだ』って思い込んでいたくらいなので。だから『将来は安定した仕事に就きたい』と思って看護師を目指しました」

周りから見れば、明らかなお嬢様。実際のところ父は音楽・芸能に携わる身として当時の最先端のものをいち早く取り入れるためにお金を使い、子どもには回ってこなかったようだ。

しかし、本人はそうとは思わず、ある種、両親への反発もあり、習い事のピアノも早々にドロップアウトしたという。

そうして、高校卒業後に看護学校へ進学。資格を取得し看護師の道へ進むことになる。

「最初は総合病院に就職しました。なってみてわかったのですが、なぜか看護師って自己主張が強い人が多いんです。今でこそ男性看護師も多いですが、私の就職したときはほぼ女性社会で、いじめなんかもあったりしましたね」

当時は「女性の中でのヒエラルキー」が看護師の中に存在していたという。

そして気がつけば総合病院で12年。その後、健診センターも12年、巡回健診を6年と、30年にわたって看護師として働いてきた。

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