「パレスチナ問題」こんなにも複雑になったなぜ 人気世界史講師が今さら聞けない常識を解説

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

ユダヤ人国家をどこに建設するかはいろいろ候補地があったのですが、パレスチナにユダヤ人国家を建設すると決めたのが1905年のことでした。このパレスチナにユダヤ人国家を建設するという動きを後押ししたのが、第1次世界大戦中の1917年にイギリスが発表したバルフォア宣言です。用意周到に明言を避けてはいますが、ユダヤ人国家建設を支援すると思われても当然な内容の文書です。

1930年代からパレスチナへの入植が盛んに

第1次世界大戦が終わると、パレスチナはイギリスの委任統治領となります。1930年代になってドイツにナチス政権が成立し、ユダヤ人への迫害が強まると、パレスチナへのユダヤ人の入植が盛んになります。

パレスチナは委任統治A地域(※)なので独立が決まったも同然です。ただ、その独立国家が現地に住む多数派のパレスチナ人主導のものになるのか、それとも入植してくるユダヤ人主導によるかはわかりませんでした。

※第1次世界大戦後のパリ講和会議で大戦に敗れたドイツの植民地やオスマン帝国の支配領域が戦勝国に分配される際、ただ植民地の宗主国が代わるのではなく、民族自決を前提に分配した。この植民地だったところは独立までとりあえず管理しておくこととし、これを「委任統治領」と呼んだ。委任統治領はA、B、Cの3ランクに分けられ、Aは「国民国家を形成できるけどちょっと待っててね」、Bは「国民国家を形成するにはまだ時間がかかるね」、Cは「国民国家形成はまだ無理」というもの。

第2次世界大戦終結直後のパレスチナの人口を見ると、パレスチナ人58%、ユダヤ人33%という割合でした。その間、イギリスはパレスチナにどういうかたちで独立国家をつくるか、ユダヤ人の代表とパレスチナ人の代表に様々な案を提示しますが、どれも合意に至りません。

第2次世界大戦が終結した頃から、ユダヤ人の過激派はパレスチナを委任統治しているイギリスへのテロを起こします。第2次世界大戦で疲弊していたイギリスはパレスチナの委任統治を終了し、パレスチナをどうするかは国際連合に委ねられるのです。

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事