赤坂真理さん独白「生きるのにお酒が必要だった」 わたしは依存症ではなくアディクション当事者

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もしかして、それは受け身ですらないかもしれない。実際のところ、それは能動と受動の中間にあるのではないだろうか。求める気持ちもあるが、対象のほうが自分にやってくる感じがあり……だとするとそこにあるのは一種の出会いだ。運命的な出会いだ。あまたのモノやコトに触れる中で、なぜだか“それ”とだけ一対一の強い関係が生じる。“それ”​とわたしとの恋愛関係だ。自分の気持ちだけでもなく、対象の魅力だけでもない。引き合う引力そのもののような中で、第三の状態が生じる。アディクション。そこには自分のコントロールは効かない。

アディクションとはどんな状態か

アディクションとは、主体性を発揮したくてもできない状態のことだ。

『安全に狂う方法――アディクションから摑みとったこと』書影
『安全に狂う方法――アディクションから摑みとったこと』(医学書院)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

自分というものの力を信じ、自分をコントロールすることがよしとされる現代西欧型社会で、これは脅威だ。アディクションが排除され差別されなくてはならないと社会が考える理由はここにある。なかでもイメージとして反社会的なものは、刑法の罰が与えられる。コカインよりアルコールで心身が壊れた人や周囲を壊した人のほうがずっと人数が多いにもかかわらず、アルコール所持は罪がなくコカイン所持は厳罰である。

これはイメージに課せられた罰であり、それを見るとその社会が何を差別したいのかが見えてくる。アメリカでは、アディクションに課せられる罪はマジョリティの世界に根強く残る人種差別が合理化されたものだと、『依存症と人類』(みすず書房)の著者で自ら強度のアディクションに苦しんだアメリカの精神科医カール・エリック・フィッシャーは言っている。有色人種や低所得層がアクセスする薬物は罪が重く、白人富裕層がアクセスする薬物は罪が軽い、など。それが日本では多分に、イメージ的な差別になっている。大麻所持への厳罰化も「はずれたイメージの人」を社会が許さないのである。それ以外に理由が見つけられない。

赤坂 真理 作家

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あかさかまり / Mari Akasaka

東京都生まれ。作家。1995年「起爆者」でデビュー。『蝶の皮膚の下』(河出文庫)、『ミューズ』(野間文芸新人賞、講談社文庫)、『ヴァイブレータ』(講談社文庫、映画化)などを刊行。2012年に天皇の戦争責任をアメリカで問われる少女通して戦後を問うた『東京プリズン』(河出文庫)が大きな反響を呼び、同作で毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部賞を受賞。批評と物語の中間的作品に『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)、『愛と性と存在のはなし』(NHK出版新書)など。身体を使った文学的表現にも関心を持つ。アクティブ瞑想、タントラ瞑想を教える。

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