赤坂真理さん独白「生きるのにお酒が必要だった」 わたしは依存症ではなくアディクション当事者

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やめられなかったのだ、やめたくても。それが損害や痛みや危険をともなうものであっても。

とすると、目に見える症状よりは、「やめたくてもやめられない」という不可解な自分の状態のほうが問題の本体ではないだろうか。その強迫性。

「依存症」とは、あくまで治療のために作り出された言葉だ。問題飲酒など、表面にあらわれた症状がよくなることをゴールとしている。しかし「症状がよくなる」とはゴールではなくて経過ではないのか。その人を「依存症」にまで押しやった力は、そのまま残っているのだから。

さらに力はそのままに症状だけが見えにくくなっていくことは、ある意味で危険ではないだろうか。いきなり自殺したり他害へと爆発しかねないのだから。

発見されにくいことは危険だ。とりわけ自分自身に発見されにくいことは危険だ。依存症という言葉では何かが見えなくなる。わたしは何かが見えないままに、そして見えにくいからこそ、危険な状態を長く続けた。

わたしは今、依存症ではなく「アディクション」と言ってみたい。単なる言い換えではない。アディクションとは、自分が何かに強迫的にとらわれている状態すべてだ。コントロール不能のまま何かにとらわれていること、その不可解さも含めた全部の状態だ。問題飲酒など、それがどんな症状であったとしても、その症状を出してしまう大もと、と言ってもいいかもしれない。

わたしは一人のアディクト(アディクション当事者)である。

そう認める。

アディクションに対し、コンロトールを持てない。

そう認める。

認めたうえで、そのコントロールの持てなさまでを、できる限り語ってみたいのだ。

コントロールの効かない運命的な出会い

「依存症」というのは、日本語としても不思議な感じがする。

「依存する」とは、主体性がない、それなしではいられない弱い人、のようなネガティブな意味合いの言葉であるにもかかわらず、それ自身ははっきり能動的な言葉だ。「わたしは〇〇に依存している」は、酒であれなんであれ、わたしの「選択」ということになる。ここに「自己責任論」も出てくる。

けれど依存症の実相が能動的なことだとはとうてい思えないのだ。依存しようとして、しているわけではないからだ。

むしろ英語でbe addicted to〜と受け身で表現されるほうが、アディクションの実態にはまだ近い。当事者によっては、酒やコカインやギャンブルや恋愛対象から寄ってこられるようにさえ感じられているのではないか。自分が避けようとしても、あちらのほうからやってくるのだ。受け身であるほうが、「主体性を発揮しようもなく、そこから離れられない」という実態に近い。

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