対話の現場/ふまじめのすすめ新しい対話的発想法

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だが、なぜ同じでなければならないのか。なぜ、みんなと同じように考え、同じ時期に同じ行動を取らなければならないのか。みんなと同じでなければ、「ふまじめ」なのか?

違和感があるなら、むしろそこをまじめに追求したほうがよい。

要するに、ここでいう「ふまじめであれ」とは、「クリティカルであれ」ということを意味する。

もちろん、世間の常識に従って生きるのもよい。何に従って生きるのも自由である。だが、「従う」ことが目的化して、その目的をまじめに果たそうとはしていないか?

ここで、自分で自分に疑問を抱けるかどうか。疑問を抱くことを、「ふまじめ」といっているのである。だから、まじめに「ふまじめ」を追求することも可能なのだ。

面白いことに、壇上で「ふまじめであれ」と言うと、必ず「先生方のお話を聞いて目からウロコが落ちました。これからは、ふまじめに生きることにします」という方々が出てくる。しかし、「ふまじめであれ」と言われて、「はい、ふまじめになります」と従うのは、まさに「まじめ」の真骨頂。決して「ふまじめ」ではない。難しいものである。

まじめに「ふまじめ」を追求すること、すなわち真剣にクリティカルな姿勢を貫くことは重要であるが、ここにも落とし穴がある。クリティカル(批判的/多面的)に考えて、対話的に問題解決することが目的なのに、「クリティカルであること」が目的化してしまうのだ。

たとえば、批判的になりすぎて、他者のあら探しや世間の常識の否定だけが目的になってしまう。あるいは、多面的になりすぎて、結局のところ何の解決策も見いだせない。

まじめなのはよいことだ。物事に真剣に取り組むのもよい。だが、それは往々にして視野を狭めてしまう。何かに一心に集中するとは、よくも悪くもほかのことに目を向けられないことでもあるのだから。

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