幸南食糧は、松原でいちばん後からできたお米屋さんですが、いちばん大きくなりました。どうしてこんなに成長できたのでしょうか。川西会長さんの「1・1・2運動」にみられる発想力、トンチ力と“なにくそ”の精神力です。
最初は苦労されたそうです。主婦の方から「あんた、よう頑張っているのは分かるけどね。今までのお店との付き合いがあるし、なかなかおたくから買えないんよ」と言われました。そうしたらちょうどその頃、女性の社会進出が盛んになってきました。奥さん連中が仕事して夜遅くなることもあります。そこでお米を炊こうと米びつを見たら、お米がありません。困りました。その頃の松原では、だいたいどこの店も、夕方5時で終わりです。
営業時間の工夫で地域いちばんのお米屋さんへ
だけど、川西さんの所は、朝の5時から夜の11時、12時まで店を開けていました。それで、困ったお客さんが頼むと、夜遅くとも、わかりました、とお米を団地に届けに行ったそうです。その頃は、団地のほとんどが、自分とこのお米を買ってくれていないわけです。川西さんはその時、「よーし、この団地一棟全部、わしとこのお客にしてやる」と思ったそうです。それで、約束の時間丁度にピンポーンと押すんです。すると、お客さんは「あんた、すごいな。ぴったりに来るんやね」と言います。川西さんは、「そうですねん。夜遅くても、おうちの前まで届けますねん」と、団地中に聞こえるような大きな声で返事をします。そうすると周りの家も、あの米屋は遅くまでやってるんや、便利な米屋だなぁ、となります。それで、1軒が2軒になり、2軒が3軒になり、ついに団地全部が川西さんのお客さんになったそうです。
ここからおまけです。時々パートの女性を雇われます。その際、たくさんの応募があり、何人かは不採用にしなければなりません。そのとき、不採用の通知と一緒にお米をプレゼントされます。「地元の主婦の声は大事ですよ。不採用の方にも喜んでもらいたい」と。そうすることで、会社に対する悪口は出ません。「おくさま印」のお米は評判となり、地元で大人気になっていったんです。
すごい努力とサービス精神とで、成長しました。もともとは四国の人ですが、大阪でお米屋に就職して、苦労されて今日に至っているのです。それで、河内松原商工会議所の会頭もされました。
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