紫式部「恥さらしと言われた宮仕え」決断した背景 道長はどう考えていた?紫式部の彰子への思い

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紫式部は出産間近の中宮・彰子の様子を「お付きの女房たちがとりとめのない雑談をするのをお聞きになりながら、出産間近で、お身体も大変に違いないのに、それをさりげなく隠しておられる」と書きとどめています。

そして、そんな中宮の様子を見て「つらい人生の癒やしには、求めてでも、このような方にこそお仕えするべきなのだと、私(式部)は日頃の思いとは変わって、すべてを忘れてしまう」と紫式部は感想を漏らすのです。

紫式部の宮仕えの日々は、気が重いこともあったでしょう。いや、ほとんどがそうだったかもしれません。

何しろ紫式部は、好奇心はあっても、引っ込み思案で内向的な性格。多くの女房たちに交じって、宮廷で働くことは、精神的にきつかったと思います。

紫式部の彰子に対する思い

そんな紫式部の清涼剤ともいえるのが、自身が仕える彰子の奥ゆかしい態度だというのです。これを主人への追従ととる向きもありますが、そのような追従をわざわざ紫式部が私的な日記に書き込む必要はないでしょう。

彰子は、長保元年(999)に入内。当時、彰子はわずか12歳でした。しかも、一条天皇には、すでに寵愛する中宮・定子がいたのです。

定子の父は、藤原道隆。道隆は、道長の兄でした。彰子の入内の直後、定子は一条天皇の第一皇子・敦康を産みます。翌年、彰子は中宮、定子は皇后となるのですが、天皇の愛情は定子に注がれていたと思われます。そして長保2年(1000)、定子は女子を出産しますが、直後に亡くなってしまいます。

亡くなった後も、一条天皇は定子に思いを寄せていました。そのため、一条天皇と彰子の間にはなかなか子ができませんでした。

彰子が懐妊するのは、入内から9年を過ぎた頃なのです。彰子には、出産の重圧というものが、かかっていたでしょう。それにもかかわらず、そのような素振りを見せない中宮・彰子。紫式部ならずとも、彰子の姿に感動するのではないでしょうか。

だからこそ、紫式部が「つらい人生の癒やしには、求めてでも、このような方にこそお仕えするべきなのだ」と『日記』に書いたのは、言葉だけの追従ではないと思うのです。

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