紫式部「恥さらしと言われた宮仕え」決断した背景 道長はどう考えていた?紫式部の彰子への思い
為時の家は一族を挙げて道長に仕えていたので、道長もかねて、紫式部の存在くらいは知っていたと思われます。藤原為時の娘であり、藤原宣孝の妻(未亡人)として認識していたのではないでしょうか。
また道長は、前々から、詩歌の会を催したり、書物を収集させたり、文事(学問や芸術)に深い関心を寄せていました。
紫式部も若い頃から書物に親しみ、自らも物語を執筆します。道長はそのことを聞き、インテリの紫式部を出仕させることは、娘(彰子)にとって教育的観点からもいいのではと考えたのではないでしょうか。
為時は紫式部の宮仕えをどう思っていたのか
「娘御を女官に」という話は、もちろん最初は、紫式部の父・為時にあったでしょう。
為時としては、道長に恩義を感じていたでしょうから「嫌」とは言えない。それに、娘が宮中に出仕することは、自分の家の繁栄につながると、為時の胸に功利心が宿ったかもしれません(それとも、世間一般のように、宮仕えは家の恥であり、娘の出仕は気が進まぬと思っていたのでしょうか)。
父から宮仕えの話を聞いた紫式部も迷ったことでしょう。それでも結局は出仕することになります。
宮仕えは恥ずかしいことだと思いながらも、どこか違う世界を見てみたいという好奇心や、夫がいない寂しさを紛らわしたいとの気持ちもあったのかもしれません。寛弘2年(1005)頃のことでした。
紫式部の宮仕えの日々を知るうえで貴重な史料が、『紫式部日記』(以下『日記』)です。記述を見て、宮中での生活をのぞいてみましょう。
紫式部が出仕してから3年後の寛弘5年(1008)秋、中宮・彰子は懐妊していました。
彰子は、父・藤原道長の土御門殿(邸)に滞在。『日記』は、この土御門殿でのたたずまいの描写から始まります。
「秋の気配が立ちそめるにつれ、ここ土御門殿のたたずまいは、えも言われず趣を深めている」と。
鮮やかな空、色づく池の畔の木々、草むら。秋の気配漂う道長の邸は、鮮やかな色に染まってて、そう遠くないところから、絶え間なく読経の声が聞こえてきたそうです。道長が娘・彰子の安産を願い、僧侶たちに読経させていたのでした。
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