「三公七民に地税なし」羨ましすぎる江戸の税事情 農民は「隠し田」による脱税も黙認されていた
また、富豪にはそれなりの社会的な責任も求められました。
江戸時代から昭和初期にかけて、日本一の地主と言われていた山形・酒田の本間家なども、防風林の植林や飢饉対策などのために多額の自費を投じ、幕末には藩に巨額の御用金を供出しています。
武士も「祖父の代からの借金」は背負うことがない
江戸時代の中ごろから武家の生活はかなり苦しくなっていましたが、没落してしまう武家はあまりいませんでした。
武家の主な収入源は年貢で徴収した米だったのですが、江戸時代も中ごろになると、様々な商品が市中に出回るようになり、米の価格が相対的に下がりました。そのため、武家の生活は苦しくなったのです。
しかし、没落して武家の身分を放棄してしまうような者は、それほど多くはありませんでした(もちろん一部には存在しましたが)。これは、幕府の巧妙な経済政策によるものと思われます。幕府は定期的に、武士への救済処置を行っていたのです。
江戸時代には、享保、寛政、天保という3回の大きな改革が行われています。この3回の改革にはそれぞれに特徴がありますが、1つだけ共通点があります。それは、「武士の借財を帳消し」にしたことです。そして、武士の借財の帳消しは、享保の改革以来、だいたい50年周期で行われています。
そのため、「父親の代からの借金を背負うことはあっても、祖父の代からの借金は背負うことがない」という状態だったのです。
また、幕府は商人側にも配慮しました。武家の借財帳消しを行うたびに、札差(金貸業者)に対し特別融資を行うなどをして、金融不安が起きないようにしたのです。高圧的に借金を踏み倒すだけじゃなく、それなりの手当も行っていたのです。
だから、札差(金貸業者)も極端な貸しはがしに走ることはなく、江戸期を通じて武家との持ちつ持たれつの関係を保っていたのです。
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