「三公七民に地税なし」羨ましすぎる江戸の税事情 農民は「隠し田」による脱税も黙認されていた

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そして、天和3(1683)年には、幕府は諸藩に対しても「囲米」をするように命じました。囲米などの制度により、災害が起きたり飢饉になっても、日本ではそれほど死者は増えませんでした。

旧幕臣で、明治新政府の海軍大臣などを歴任した勝海舟によると、幕府の蔵には何十年も前の囲籾が保管されていたそうです。それだけ非常時備蓄の観念が徹底していたのです。

囲米は、江戸時代の中ごろになると米価の調整にも使われるようになりました。米の価格が安いときは囲米を増やして米の価格を上げ、米の価格が高いときには囲米を放出して米の価格を下げたのです。

当時、米は金銭に匹敵するほど、社会の最重要物資でした。幕府や諸藩は米の収入が財政の柱だったので、米の価格が安いと財政が悪化してしまいます。そうかといって米の価格が上がりすぎると、庶民の生活が苦しくなります。また、米の価格というのは、ほかの物価にも大きな影響を与えていました。

そのため、幕府は囲米によって、米の価格や米以外の物価の調整をしていたのです。つまり、幕府は囲米の売買を行うことで、現代の中央銀行のような役割も果たしていたことになります。

年貢の税率は、おおむね「三公七民」程度

農民たちがこのような豊かな生活を送れたのには、税がそれほど重くなかったことがあります。江戸時代の年貢は、通説では五公五民などと言われていますが、現実の収穫量などを検討すると三公七民くらいだったようです。

江戸時代の初期はインフラ整備の費用がかかったので、四公六民くらいでしたが、それが一通り終わると、三公七民くらいに落ち着いたようです。また、インフラ整備のときに多めに取られていた年貢も、その多くは人夫として雇われた農民などに支払われました。

年貢の決め方には、「検見(けみ)法」と「定免(じょうめん)法」がありました。

検見法というのは、その年ごとに収穫具合を見て年貢を決めるというものでした。この検見法では、その村落であまり収穫のよくない田んぼが基準とされました。なので、農民にとってはかなり有利となったのです。

また、検見に来る役人(武士)に対して、村は丁重にもてなし賄賂を贈るなどして、年貢を低く抑えてもらうこともありました。

定免法というのは、過去の収穫量をもとにして一定期間同じ量の年貢にするという方法でした。あまり手間がかからないし、賄賂などの不正も生じないことから、江戸時代の後半はこの方法が採られることが多くなっていました。

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