「三公七民に地税なし」羨ましすぎる江戸の税事情 農民は「隠し田」による脱税も黙認されていた
定免法では、領主の側は一定の年貢が毎年入って来るというメリットがあり、農民の側は一定の年貢さえ払えばそれ以上に収穫したものは自分たちの物になるので、生産意欲がわくというメリットがありました。
定免法には、自然災害や天候不順などで収穫量が落ちた場合、農民の負担が大きくなるというデメリットがありましたが、そういう場合は、その年だけ検見法に切り替えられたり、例年よりも年貢量を減らすなどの方法が採られました。
つまり、どっちに転んでも農民の負担が大きく増えないようにされていたのです。
「隠し田」による脱税が黙認されていた農民たち
しかも当時は、どこの農村にも「隠し田」と言われる、簿外の田がありました。この隠し田には、年貢はかかりませんでした。
役人たちも隠し田の存在は、ある程度知っていましたが、多くの場合、見て見ぬフリをしていたのです。二宮尊徳も、年貢の課せられていないあぜ道などに作物を植えて、稼ぎの足しにしていたそうです。
もちろん、領主は農民の隠し田を把握し、年貢を増やしたいと思っていました。そのため、検地と呼ばれる「土地調査」を行おうとします。しかし、土地調査というのは実はそう簡単なものではありません。全国の土地を測るという実務的な困難さもありますが、農民の反発という大きな障害があるのです。
検地(土地調査)をすれば、隠し田が見つかってしまいます。また、農地を正確に把握されることは、課税が厳しくなるということにもなります。だから、検地というのは、昔から非常に難しいものだったのです。
この検地は、豊臣秀吉の時代に本格的なものが行われましたが、それ以降は、全国的な検地は行われていなかったのです。
たとえば、天保13(1842)年に近江地方で幕府が幕領の検地を行おうとしましたが、農民の反対に遭い、中止されてしまいました。農民が検地をさせないということは、現在で言えば税務調査をさせないようなものであり、「自分たちは年貢を誤魔化していますよ」と言っているようなものです。
領主側もわかっていながら、農民の反発が怖くて検地を強行することはできなかったのです。江戸時代の農民は、それほど領主から恐れられていたのです。
明治時代になって地租改正のために全国の農地を計測しましたが、江戸時代の記録では日本全国の収穫量は3222万石となっていたのが、実は4684万石もあったことがわかりました。実際の石高は、名目の1.5倍もあったわけです。つまり、隠し田が相当あったと思われます。
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