「奨学金500万円」それでも母が大学進学させた結果 「うちは中流よりは下」と思ってた子どものその後

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「税務大学校、防衛大学校、地元と近隣県の国立大学、そして公立薬科大学の5校を受験しました。税務大学校と防衛大学校は不合格でしたが、それ以外の3校には無事合格しました。

それで、薬科大学に進みたかったのですが、入学手続きで同校の事務室を訪れた際に『奨学金とアルバイトで学費を賄う予定だ』と伝えたところ、『2年生まではなんとかなるけど、3〜4年生は実験が多いから無理だと思う』と言われてしまったため、その大学は諦めることにしました」

国立大学の理学部に入学し、奨学金を借りる

こうして、地元の国立大学の理学部に入学した赤井さん。本意ではなかったが、家から通えることは救いだった。

そして、当時の日本育英会(現・日本学生支援機構)から、毎月4万円奨学金を借りることになる。

「当時は通常奨学金と特別奨学金があって、通常は3万6000円で、特別が4万円でした。どちらも、返済するときは3万6000円でよく、4000円は返済免除されたのです。また、通常でも指定された研究機関、または教員になった場合は全額免除という制度でした。

今となっては、貧乏が理由だったのか、成績が優秀だったのかはわかりませんが、大学の学費も免除になりました。ただ、それだけでは理系の学部は教科書1冊買うにも2万円することもザラなので、日本育英会のほかに県と市の寡婦奨学金も借りていました」

すべて貸与型だが、毎月何万円も銀行口座に振り込まれる経験はなかったため、純粋にうれしかったそうだ(寡婦奨学金だけは母親の元へ振り込まれていた)。

そのため、勉強にも精を出しながら、写真部とテニスサークルにも所属。そして、アルバイトは大学の斡旋窓口で斡旋された零細工場のねじ切りから始まり、皿洗い、遺跡の発掘、土木工事、塾講師、家庭教師とさまざまな仕事を経験した。

そして、卒業後は医療用医薬品を開発・製造・販売する会社の研究所に就職する。

「80年代の理系学生の就職というのは、卒業生や企業の人事(リクルーター)がスカウトに来るのです。そこで、僕は『研究員をやりたい』という話を、OBにしたところ『それだったら、製薬会社がいいよ。特に化粧品と比べたら使える額が1桁違う』と言われたため、教授に推薦状を出してもらって、志望することにしたんです。

ただ、教授には嫌がられましたね。というのも、僕を大学院に進学させたかったからです。ただ、経済的にそれは難しかったので、就職することにしました」

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