「奨学金500万円」それでも母が大学進学させた結果 「うちは中流よりは下」と思ってた子どものその後

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そして、生計を立てられなくなった赤井さんの父親は、隣県でアルミサッシの会社に入る。しかし、ここから赤井さんの父親だけではなく、家族全員が仕事に振り回されていく。

「セールスエンジニアとして新たな職場で働き始めた父ですが、サッシというのは注文が入ると本社からバラバラで運ばれて来ます。それを営業拠点で組み立てて現地に持って行き、設置するのがセールスエンジニアの仕事です。

父の入社当時は小さな町工場だったのが、次第にそこが手狭になったため、別の場所に移り、最終的に郊外の広めの土地に工場ができました。おかげで僕は小学校を6回も転校するハメになりました。今となっては笑い話ですが、『旅芸人の子どもですか?』と聞かれたこともあります」

ただ、6年間の間に6回も小学校が変わって、苦労したのは赤井さんだけではなかった。

中学2年生のときに両親が離婚

「仕事の都合とはいえ、引っ越しがここまで多くなると、夫婦仲は悪くなっていきます。最後の引っ越しで郊外に家を建てたのですが、僕が中学2年生のときに両親は離婚しました。まぁ、離婚の原因は父親の女癖の悪さもあったので、子どもたちは3人とも母に付いて行くことになりました」

こうして、母子家庭となった赤井さん。時代も時代のため、「高校を卒業したら働きなさい」と言われても不思議ではないが、県内有数の進学校に入学して、大学進学を目指す。

「母は昭和10年代生まれですが、国立大学の2年課程の『別科』を卒業しています。そのため、子どもの頃から『あんたは男だから学歴を付けないかん』とは、ずっと言われており、大学に行くことは既定路線でした。

そのため、母は女手ひとつで働きながら、僕を高校に通わせてくれましたが、それでも資金が足りなかったため、大学に行くためには奨学金が絶対条件だったのです」

赤井さんは小学生の頃は科学者を夢見ていた。そして、成長するにつれて、医者も目指すようになるが、金銭的な事情もあり、浪人生活は難しいと考え、薬学部を志望する。そして、「現役」でどこかに受かりたかったため、さまざまな大学を受けた。

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