Z世代が囚われる「第三者目線」という強迫観念 メリットなき個人行動の「コンプライアンス化」
與那覇:平成期にゼロトレランスを唱えたのは「自由や人権より、規律と秩序」を優先する保守派でしたが、令和に入ると彼らを批判していたはずのリベラル派まで、キャンセルカルチャーの形でゼロトレランスを振り回すようになった。一度でも失言したやつには、二度とチャンスをやるなという発想です。結果として「基準なしのゼロトレランスは危険だ」と、警鐘を鳴らす人がいなくなってしまった。
舟津:基準のなさとそれに対する結果の厳しさとのギャップは本当に怖いですね。若者もそれを恐れていると思います。何をしたらダメなのかがわからないからです。
與那覇:確かに友達間の「ハブり」は、原理的に基準がないですからね。この条件を満たすものが友達だ、のようにサインして友達を始めるわけではないですから。
舟津:就活も同じで、基準が曖昧です。ペーパー入試は基準が比較的に明確なのに対して、就活では何が条件で合格するのかわからない。ゲームのルールが明示されないままゲームに参加させられる感じです。就活ではまさに、明確な基準を示されないまま不採用、つまり一発退場させられる。
與那覇:私は就職氷河期世代(2002年3月卒業)で、当時は東大でも「卒業式には出るけど、就職は決まっていません」みたいな例はごく普通でした。大学入試はペーパーテストだから基準が明確だけど、就活での最後のセレクションは面接なので、いったいなにで「受かるか、落ちるか」ははっきりしないですよね。
景気が悪いために「まぁ東大なら採っとくか」ともならず、落とされてしまった結果、世の中では「本当に大事な競争」ほど基準がないという事実に初めて直面し、どーんと落ち込む。そうした子は周りに相当いたし、今の就活生もその点では心配です。
無気力を生み出すランダムさの氾濫
舟津:危険なのは基準が示せないことのみならず、示してないにもかかわらず事後的にはあたかも基準があったかのように振る舞われて、しかもすごく極端な結果を正当化してしまうことです。SNSでのキャンセルカルチャーもそうなっていますよね。
與那覇:SNSで炎上するのは失言ネタが多いですが、ワイドショーだと不倫とか。叩かれすぎのように思える人もいれば、お目こぼしされる人もいて、「その時の空気」以外に基準が存在しない。
いちばん問題だと思うのは、内心「やりすぎたかな」と思うクラスの炎上が起きたとするでしょう? そのとき「これはやりすぎだ」と止める勇気のない人たちが、たまたま「次に炎上」した相手には妙に寛容に振る舞って、「私はバランスが取れている」みたいな顔をする例が増えている。ここまで来ると基準が曖昧どころか、完全にランダムで、ガチャ的です。
舟津:ランダム性の高い、無差別な攻撃性がすごく高まっている。