なぜ大人は若者に「合わせる」ようになったのか 成熟という価値観を喪ったデオドラント化社会
與那覇:過去と未来となら、まだ定まっていない未来のほうがキラキラさせやすいわけですね。私が「デオドラント化」と呼ぶのも、実態の把握ではなく「キラキラ感」の演出が優先される風潮を指すものです。なにひとつ悩みのない理想の未来社会を「プレゼン」し、そこから逆算する形で、ソリューションを出せる範囲でのみ社会問題を「発見」する。そうした本末転倒が広まってはいないでしょうか。
そう気づいたのは、私自身がうつで働けなくなり、休職していた2015~2017年のことです。当時はメディアが発達障害を積極的に採り上げ、障害者支援をうたう団体やサービスも増加しました。最初は当事者として、共感しながら見ていたのですが、だんだん違和感が募っていったんですよ。
たとえば「障害者の声に寄り添うメディアです」と掲げつつ、登場する当事者がみんな素敵な服を着て、めちゃめちゃ満面の笑みで体験を語っていたりする。いやいや、本当に一番つらい人は「顔出し」で話せるわけないよね、と。キラキラした人でなければ「たとえ障害者でも同情されませんよ」といった、多様性とは正反対のメッセージになっているように感じました。
舟津:なるほど、それは興味深い視点ですね。
受容のためのデオドラント化
與那覇:最近驚いたのは、とある報道での「LGBTQ」の解説です。この呼称ができた当初は、Qは「Queer」(奇矯な)の略称で、つまり傍目にはオカシイ、ヘンタイとしか見えない人にだって「尊厳があるんだよ」とするメッセージが込められていました。
ところが日付が新しい記事だと、しれっとQは「Questioning」、自分がどの性別かをまだ決めていない人を指す、として意味を書き換えている例がある。セクシャルマイノリティの権利と言いつつ、求めているのは見た目がクリーンで、受け入れられやすい人限定だよという空気を感じます。「デオドラントされてない」少数派は、露骨に後回しにされる。
舟津:今ではLGBTQが社会的に大きく扱われるようになったとはいえ、遠巻きに見ている人の中には、どうしても嫌悪感をぬぐえない人もいるはずです。理由の1つは、性に深く関係しているからだと思います。性の問題っていうのは歴史的にみてもタブーの対象ですし、基本的には見たくないもの、汚いものなので、だからこそ相互理解から超えていかないといけないと思うんですけど、まさに隠蔽しているわけですね。
私もびっくりしたのが、最近はLGBTQに関する社員研修がけっこう行われるそうで、大企業でも社員を啓蒙している。そのときに講師の人が何を言うのかというと、「LGBTQの人が職場にいると生産性が上がるんですよ」と言うらしいんです。
與那覇:すごいな。もはやまったく意味がわからない(笑)。