なぜ日本はアメリカとこんなにも違うのだろうか 日銀会合とFOMC後の会見でわかる社会の違い

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一方、日本では180度逆だ。日銀の記者会見では「国民は物価高に苦しんでいる。それは円安のせいだ。為替に関知しないのは無責任だ」、という議論の大合唱である。この庶民の悲鳴を、記者たちが専門家として(のふりをして)、専門的な世界の用語やロジックに無理やり置きなおして、「あなたたちは庶民の敵じゃないか」、とプロフェッショナルである日本銀行総裁を責め(攻め)立てているのである。

この結果、プロフェッショナル同士の専門家による、専門家のための議論はほとんど行われない。ロイターなど海外系のメディアの記者の質問にはそういう質問が含まれる確率が高い。

だが、国内系は専門家風であっても、それは議論にはならず(更問が認められないという点と、日銀、いや日本の組織は一般的に保守的で、記者会見ではとにかく言質を取られないように、答えているような答えていないような、情報量がゼロの回答を理想的なものとすることにもよるが)、事実の確認的な念押しと、非難に終始する。

「これでは、専門家対専門家の記者会見の意味がないではないか?」と思いながら、毎回私は熱心に飽きもせず見ているのだが、植田総裁は率直だから、少し興味深い発言もあるのだが、その発言は多くの場合、事後的に問題視されることになり、植田氏の発言は記者会見の回を追うごとに、情報量の少ないものになってきている。

今回の6月14日の日銀会見では、記者会見を仕切る幹事社が、予定時間をすぎそうなので人数を制限しようとしたところ、不満の声が上がり、謙虚で誠実な植田総裁は、すべての質問を受けた。パウエル会見ではどんなに質問の手が挙がっていても時間で打ち切る。えらい違いだ。 

【2024年6月15日17時20分 追記】上記の日銀会見の記述について、初出時から修正しました。

「99%に支配される日本」は専門家軽視の社会に

しかし、日本はこれでいいのだ。記者会見は、エリートの説明のためではなく、国民の味方の記者のもの。すべては庶民のもの、社会は庶民のものであり、エリートのにおいをさせたり、貴族的にふるまったりしたら、社会的に抹殺される。

麻生太郎元総理は高級ホテルのバーによく行くだけで(彼にとっては、コンビニのコーヒーよりもスタバが好きだ、という程度のことのはずだが)、事実上2度目の総理は不可能になってしまったし、学者や有識者が、日本の在り方を考えるうえで、国民の一般的な意見を分析対象すると、「上から目線だ!」と、その議論と論者は抹殺されてしまう(あるいは私のように炎上する)。

日本では、社会も言論界も、「99%」に支配されているのだ。それはそれでいいことであるが、1%の議論と専門家の知恵を99%が利用する社会のほうが、結局は効率的かつ合理的であり、そして本来は望ましい社会ではないだろうか。

しかし、日本は永遠にそうならない。そして、それが非効率であっても、もちろん構わない、という社会の意見なのだ。そして、エリートは抹殺され、今後も存在させられないように絶滅危惧種化、いやすでに絶滅して専門家軽視の社会が出来上がってしまっているのだ。

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