それに対して、パウエル議長は冷たく淡々と、専門家に答えるように「インフレが収まると自信を持てたときだ」と回答した。確かにそれはそうなのだが、庶民の心の代弁者の質問に心では答えていない。気持ちがわかっていて、答えないのなら鬼だが、単に、まったく庶民の感覚を感じ取る力がないという解釈が今回は当てはまるだろう。彼女の質問はまるでなかったかのような空気で、次の質問に移っていった。
しかし、これが日本だったらどうであろうか?
翌日のメディアの報道はまったく正反対ではないだろうか。おそらくSNSは炎上し、「庶民の心を無視する『鬼植田総裁』、などと徹底的な非難となり、場合によっては、官邸筋もコメントをする可能性があり、それを踏まえて植田総裁が謝罪、あるいは釈明する事態に追いこまれる可能性すらあるのではなかろうか。
これが日本であり、アメリカと日本の決定的な違いだ。
アメリカは完全にエリートが主役
アメリカも日本も、社会の分断や格差が問題になっているが、決定的に違うのは、どちらが主役か、ということだ。アメリカは、完全にエリートが主役だ。「ワシントンコンセンサス」や「(ケインズ経済学で使われる)ハーベイロードの前提」などといわれるように、政策はエリートが決め、それを評価するのも「1%と残りの99%」のうち、1%の富裕層で、彼らの中でのせめぎあいで社会の意思決定がなされている。
金融政策も、経済学の博士号を持ったエコノミスト、セントラルバンカー、大学教授たちの議論でほぼ決まり、それを1%の強欲な、高学歴あるいは投資家として大成功した「インベスターサークル」との対峙の中で、市場に落とし込んでいく。そして、それらを、経済学と市場を理解するか、敬意を払っているプロフェッショナルジャーナリストが批判、議論する。この中に庶民の出番はどこにもない。
金融政策の議論の外で苦しみうめいている人々は相手にされないどころか、まったく視野に入っていない。「庶民対策」は政治の世界の話であり、経済学と金融市場の外の話で、「そちらはそちらでやってくれ」、ということだ。
しかし、実際には、政治の世界も、結局、エリートたちが、物価高に苦しむ人々の声を利用して、大統領選挙を有利に運ぼうとするだけだ。この反エリートでトランプだが、トランプはもちろん庶民から最も遠い人であり、庶民の声を最大限利用している、「あっち側」の人だ。
金融政策も庶民の声の影響を受けるルートとして、例えば、大統領選挙の直前には、FEDは動けないという議論をするのが好きな有識者風の人々はいる。だが、金融政策関係者も、その彼らの動きを予想する市場関係者も、これらの人々はエリートとして、単にエリートがどういう発想をするかについて述べているだけで、実は、エリート同士の心理戦の中で、その要素を駆け引きの一つとして使っているにすぎない。実は、本質的には庶民も、庶民の立場も出番はないのだ。
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