社会支出に占める障がい者向け給付の割合を見てみよう。日本のそれはOECDに加盟した38の国のなかで30位。主要先進国では最低レベルである。
障がい者は数でいえばマイノリティだ。だからこそ、少数者に対する扱いをみれば、その国の人たちの寛容さがわかる。日本は明らかに不寛容な社会である。
私たちは、経済力や防衛力、スポーツの勝ち負けを競いあう。それなのに、少数者へのやさしさを競いあおうとはしない。なぜなのだろうか。
私たちは自己責任を重んじる社会を生きている。生活保障が貧弱な政府を作り、自助努力、自らの責任で生きていくことの価値を重んじてきた。
勤労の美徳という言葉がある。みなさんもご存じのように、勤勉に働き、自己責任で生きていくことは、道徳的に優れた人間の条件である。
これは、生産性のある/なしが、人間の有用性ばかりか、道徳性をも左右することを意味している。生産性のない人、すなわち働けない人たちは、自己責任で生きたくても生きられない人たちなのに、あたかも社会のお荷物であるかのごとく語られる。
人間とは「総合的な生き物である」
私たちは子どもたちに教育の機会を与える。だが、教育は「人間」を生産的で、経済の役に立つ「労働者」に作りかえるための道具ではない。
理論でもいい。論理でもいい。教育は「理(ことわり)」にしたがう。運悪く生産性がなかった、それだけの理由で障がい者を不当に扱う。それは「理不尽」であり「不条理」である。そのように「理」から外れぬよう、教え諭すのが教育の役割である。
「人間とは総合的な生き物である」
これは恩師である神野直彦先生の大切な教えの1つだ。
私たちには、できることもあれば、できないこともある。彼女ら/彼らもまた、同じであり、私よりも優れている点だってもちろんある。私自身、障がいのある人と共に生きることの愉しさをもっと、もっと、知りたかった、そう強く思う。
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