反知性主義が叫ばれるようになって久しい。だが、人間が総合的な存在である以上、生産性という、たった1つの物差しによって偏見を抱き、差別するのではなく、相手を理解し、よりよい接しかたを見つけていくための知性がこの社会に必要だ。
ドラえもんに「10分おくれのエスパー」という話がある。この話では、ジャイアンが友だちを一方的に傷つけるのだが、彼の脅し、理不尽さにのび太は屈し、正しいのはジャイアンだ、といってしまう。彼は帰宅し、強い後悔の念とともにこうつぶやく。
「正義を守るにも力がいるんだなあ。力が欲しいなあ」
そう。私たちには力が必要だ。ただしそれは腕力ではない。権力でもない。知性という力だ。私たちが自らの無知を知り、いくつになっても学ぶことを忘れず、現実を知り、子どもたちに伝えていく。この努力なくして、寛容な社会など永遠にやってこない。
世界に誇れる寛容な社会を作る
障がいを社会にひらく。それは途方もないエネルギーを必要とするだろう。
だが、世界に誇れる寛容な社会を作る、という目標は、私たちがチャレンジする価値のある、全力で取り組むべきテーマではないか。同時にそれは、社会的な虐待をし、その事実と向き合おうとしないまま、大人になった私(たち)の責任でもある。
<未知>なる現実へと若い人をいざない、<既知>に変え、<無知>ゆえに生まれる偏見、そして差別をなくしていく。そのためには、まず、私たち大人が、障がいを知り、これまでの自分の愚かさを省みなければならない。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら