後悔だらけの悲しい記憶。だけど、最近、子どもたちに絵本を読み聞かせるようになって、気づかされたことがある。それは、子どもだった私たちには、ダウン症の彼がどんな人間かを知る機会を与えられていなかった、ということだ。
彼には私と違うところがいくつかあるが、それ以外は私と同じだ。だとすれば、どういう疾患で、どういう症状があるのか、ちょっとした学習で理解できたことはたくさんあったはずだ。
それなのに、先生や大人たちは、私たちに何も教えてくれなかった。私が読んでいた教科書、絵本、マンガのなかにも、手足の不自由な子やダウン症の子が登場することはなかった。
だから、自分と違って見えるその子を見て、言葉にできない恐怖を感じた。同じ肌の色の子。同じ国の子。同じような背格好で同じ言葉を話す健康な子。そんな<単色の社会>など、世界中のどこを探しても見つからないというのに。
障がい者への差別は「大人たちの責任」
障がいについて知り、一緒に過ごす機会がなければ、相手のことなどわかりようがない。だから、私たちは偏見を持つ。
そう、偏見は<無知>から生まれている。
障がい者への差別は、障がいについて教えようとしない、教える能力すら身につけてこようとしなかった大人たちの責任である。この大人には、当然、私も含まれている。
子どもにとって、障がいのある人は<未知>の人だ。だが、私たちが、彼女ら/彼らに、学びのチャンスさえ与えれば、障がいのある人の生きづらさは<既知>に変わる。
一方、私たち大人が、障がいのある人たちのことを知ろうとせず、子どもたちに語るべき言葉を持てないのは、たんなる<無知>の仕業である。この<無知>こそが偏見を生み、差別へと子どもを導く。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら