精神科医が「自分が病みそうになった時」の対処法 発した言葉が意図せず患者を傷つけることも…
何が傷つけて、何が傷つけないかは、もちろんまずもって傷つけないであろう言葉というのはあるのだが、それだけでは治療にならないこともあり、これを言ったらひょっとして出血するかもな、ということも言わないとならない場面はある。
いや、本当に言う必要があるのかどうかは慎重に吟味すべきだろう。言わないとならないと思い込んでいるときこそ、冷静に考えてみると、自分が言いたいだけということはしばしばあるものである。
いずれにせよ、ちょっと出血するかもしれないことを言うときは、患者さんの反応をみて、患者さんの出血量を判断している。つまり、切ってみてどうかをみているのだが、出血したからといって、そこでやめてしまうというものでもなく、出血した、ということを今度はヒントにして、次にどこを切るかを決めるようなところがある。
しかし大抵は反応がない
問題は、その反応が大きければ誰にでも分かるのだが、反応がすごく微細だったり、間接的だったりすることがほとんどで、場合によっては誰がみても分からないということすらありうる。なんというか、言わないのである。傷ついた、とか、支えになっている、とかその場ですぐ言う人もいるかもしれないが、大抵は言わない。切られた本人ですら、後から傷ついたことが分かったり、傷つけられたと思ったらやっぱり支えになっていたことが分かったり、その逆もある。
言われれば分かるが、言われないとフィードバックができないので、同じようなところに同じメスをふるってしまうことがありうる。肝心なのは、言われないが発せられる微細な出血のサインを感じ取ること、感じ取って次のメスをふるう方向を微調整すること、それでまた出血のサインを感じ取ること、この繰り返ししかない。
我々精神科医の診療は、精神科医として患者の前に立って行う言動のすべてに、患者にメスを入れるという側面があり、外科手術と違ってどうやっても何百人か何千人かに一人はおそらく変なところを切ってしまう。これはたぶん防ぐことができないことなので、そういう危ないことをしている因果などうしようもない存在であるということを認識した上で、それでもメスを握るしかないわけである。
外科医も時々切ってはいけない血管を切る、などと発言したらこれは大事だが、精神科医の場合は、間違えて切ったところで目に見えて肉体が死ぬわけではないので、切ってはいけない心の血管を切り患者の心が死ぬことに対して、幾分過小評価されているところがあるような気がする。
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