37歳で死去「道長の甥」伊周が遺した"最期の言葉" 道長はライバルである伊周をどう思っていた?
『大鏡』は、道長のその言動を、伊周に対する同情の心があるためだとしています。道長は、双六盤を取り寄せて、盤面を拭うなど、準備に勤しみます。
そうこうしているうちに、伊周もようやく心が落ち着いてきたようです。道長も伊周も双六が大好きだったようで、着物を脱ぎ、腰だけを覆った姿で、双六を楽しみました。それも、明け方まで。
道長と伊周がこのように打ち解けたら、伊周は子どものような性格であるため、すっかり気を抜いて、また何かやらかさないかと、周囲の人々はヒヤヒヤしていたようです。
ちなみに、この双六勝負には賭けものがありました。伊周は、古い何とも言われぬ由緒ありげな物。道長は、新しく面白みのあるもの。具体的に何を指しているのかはわかりませんが、とにかく2人は、賭けものを考えて、双六勝負に臨んだのです。『大鏡』によると、伊周は終始負けっぱなしだったようでしたが……。
37歳で死去、伊周の最期の様子
そんな伊周は、花山法皇に向けて矢を放つという不敬事件(矢を射たのは従者)により、996年に太宰府に護送されますが、翌年には都に召還されます。そして、1010年、失意のうちに、37歳で亡くなりました。
『大鏡』には、伊周の最期の様子も記されています。臨終間際になっても、伊周はそこまで苦しんではいなかったようです。
しかし重体になったとき、伊周の家族は、祈祷のために僧侶を呼ぼうとしますが、来られる者がいませんでした。どうしようかと思い、頼ったのが、道長でした。
そして伊周の子・道雅が、使者として道長のもとに派遣されます。それは、人々が寝静まった深夜でありました。
道雅は、道長の邸の前で、咳払いをしたそうです。邸内からは「誰だ」との声が聞こえてきます。道雅は名前を名乗り「このような次第(伊周の重体)で、祈祷を始めたいと思います。しかし、来てくれる僧侶がおりません。僧侶を呼んでいただきたく存じます」と用件を話しました。それを聞いて驚いた道長方は、僧侶を差し出しました。
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