37歳で死去「道長の甥」伊周が遺した"最期の言葉" 道長はライバルである伊周をどう思っていた?
行き場をなくした下人たちは、梅壺の塀の内に入るしかありません。道長は、その光景を「けしからん」と思い、眺めていました。他の者も「おかしなことだ」と感じていましたが、伊周に遠慮して、抗議できずにいたのです。
そのとき、道長の供の者1人が、素知らぬ顔で、塀の内に入ってくる者たちを、乱暴に外に押し出そうとします。
いったん、塀の内に入っていた人々は、雪崩のように、外に溢れ出てきました。すると外にいた伊周の供の者たちも、それ以上進むことはできなくなってしまいました。
このとき伊周はどうしていたのでしょうか。実は、伊周はかなり太っていたようで、溢れ出てくる大勢の人々に揉みくちゃにされてしまったのです。そればかりか、筋向かいの登花殿の細殿の蔀(しとみ:板戸)に身体を押しつけられるという、無様な姿をさらしてしまったのです。
「やぁ、やぁ」と伊周は叫びますが、場所は狭く、人も多いため、そう簡単に、この状況から抜け出すことはできません。
その伊周の様子は、まことに見苦しかったと『大鏡』は記しています。伊周が直接的に悪いことをしたわけではないのですが、見栄を張って外歩きをしなかったならば、このような事態は起こらなかったのに、と同書は付け加えてもいます。
道長と伊周に関するデマが流れる
また『大鏡』は、道長と伊周の次のようなエピソードも載せています。
道長が金峯山寺(奈良県吉野山にある修験道の中心寺院)に参詣したときのことです。その途上で、「伊周方が不穏な企てをするのではないか」との噂が飛び交いました。
道長方も警戒したようですが、特別なことは起こらず、無事に道長は帰還します。「不穏な企て」というのはデマだったようですが、その噂は、伊周の耳にも入りました。そして、それが道長にも伝わったということも知るのです。
伊周は「笑止千万なこと(非常にばかばかしい)」と思ったようですが、そのままにしておくのも悪いと感じ「誤解」を解くために、道長に会いに出かけました。
伊周と対面した道長は、面白可笑しく参詣道中の話をしたようですが、伊周の様子は、どうもオドオドしています。道長から何か責められると思ったのでしょうか。
道長は可笑しいと思いながらも、気の毒に感じ「最近、双六(すごろく)をしていないので、気が晴れません。どうです、双六をしませんか」と場をほぐそうとしました。
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