「道長や皇子を呪う」恐ろしすぎる事件の"黒幕" 内裏で呪いの札が見つかる、犯人は一体誰か
そして、1009年の高階氏関係者による中宮・彰子、道長の呪詛事件に話は戻ります(ちなみに、その頃には、道隆の妻・貴子も亡くなっていました)。
呪詛を担当した僧侶・円能は、中宮やその子、道長の存在が藤原伊周の立場を貶めるので、亡き者にしようとして、呪ったといいます。
円能は、厭符1枚を高階光子(高階成忠の娘)に、もう1枚を源方理の邸に届けたようです(呪詛を担当した者には、褒美が与えられました)。高階成忠のこれまでの動きを見ていると、呪詛を命じた張本人は、その娘の光子だったように思います。ちなみに『栄花物語』にも、この呪詛事件のことが記されています。
道長は、高階成忠の息子・高階明順(伊周の叔父)が指図したと疑ったようです。高階明順を召した道長は次のように諭したといいます。
「このような悪意は決して持ってはならん。若宮(後の後一条天皇)は幼いが、因縁によってこの世にお生まれになった。普通の子でさえ、そのようなことでは死なないのに、ましてや、並々ならない果報により、皇子として誕生された若宮。その若宮が人の呪詛などに負けるはずがあるだろうか。お前たちが、このようなこと(呪詛)を行うならば、天罰がたちどころに降るであろう。よって、私がその罪を問うことはあるまい」と。
権力者の余裕というものを感じることができますが、高階明順は恐れ入って、何も言葉を発することはできなかったようです。
関与した人達は処罰、伊周もこの世を去る
そして、その数日後に突然、高階明順はこの世を去ったと同書には記されています。高階明順がこの事件に関与していたかはわかりませんが、高階光子と源方理は官位を剥奪され、円能は禁獄に処されます。
直接関与していなかった伊周ですが、朝廷への参上停止となります(3カ月後には許されました)。伊周は翌年(1010年)1月、37歳の生涯を閉じます。「人を呪わば穴二つ」(人を陥れようとすると、自分も同じ仕打ちに遭う)とはよく言ったものです。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・深澤瞳「『栄花物語』の高階成忠の「祈り」考--道兼・道長への呪詛」(『大妻国文』37号、 大妻女子大学国文学会、2006年)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・繁田信一『殴り合う貴族たち』(KADOKAWA、2008)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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