「ひとり死の先輩」を看取って考えたシングル社会 最後の言葉は「自宅でこのまま死なせてほしい」

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さらにこの後、姪御さんご夫婦、不動産屋さん、Kさんの隣の家の古物商さんとともに、私のKさん宅退去と「Kさん宅処分プロジェクト」の一員として付き合うことにもなる。このように、Kさんの死をめぐって、巻き込まれ、巻き込み、一時的な社会関係が作られては消えていく。『東京ミドル期シングルの衝撃』第5章で、私はこうした関係性を「中間圏」として捉えられないかと提案したが、シングル社会のオルターナティブな親密圏の具体的な形の一つは、そのような性格のものかもしれない。

だが、決してきれいごとでは済まされない、できれば引き受けることはしたくないのだが、誰かが引き受けざるをえないことである。

制度的な解決は、公的あるいは民間のサービスとなるだろうが、それだけで本当によいのか。人の死にしっかり「巻き込まれる」人間が必要なのではないか。

Kさんの葬儀の日、火葬場の控室で、私はそうした到底答えの出ないことに考えめぐらせていた。区がつけてくれた葬儀屋さんの担当者さんは、私を唯一の遺族と勘違いし、Kさんのご遺体と私に真摯に向き合ってくれた。仕事ぶりが見事で非の打ち所がなかった。

だが、それは「巻き込まれた」のではない、紛れもないサービスとしてのプロの仕事だった。それに不満があったのではない。それだけで満たされなかったものが確かにあり、私はそれに人の死に「巻き込まれる」ことの意味を感じた。それは研究者の視点というより、私の宗教観とか死生観といった、もっと私的な感情から出てきたものだろう。

Kさんも筆者に「巻き込まれ」ていた

ところで、「自宅でこのまま死なせてほしい」は、終末期医療のあり方には大いに疑問を抱いていたKさんらしい最後の言葉だと先に書いたが、それは私の勝手な思い込みだったのかもしれないと後年気付いた。Kさんは一介の営業マンから役員まで出世した人だ。当時の私には、話の長いおじさんでしかなかったが、いっぽうで、それがKさんのサービス精神から来ていると感じることが何度かあった。

「自宅でこのまま死なせてほしい」は、入院して病院で亡くなることで、私に負担をかけまいとしての配慮だったのではないか。ほかに頼る人はいなかっただろうから、ある程度公的サービスを利用するとしても、入院の保証人、病院への手続きや支払い、入院期間中の自宅の管理など、多少なりとも私に負担がかかると考えていたのではないだろうか。

入院期間が長引くほど、私も病院に見舞い行く回数も増えるだろう。入院して亡くなるよりも、このまま自宅で亡くなるほうが、おそらく死を迎えるまでの期間は短くなる。そのほうが、私への負担は小さいと考えたのではないだろうか。Kさんも私に「巻き込まれ」ていたので、自分の死にあたって私に配慮しなければならなかったのではないか。

ひとり暮らしの高齢者の終末期ケアが制度的に整備され、Kさんがそうしたサービスを利用できたなら、生前に整理したかったことがもっとできたかもしれない。確かめようもないことだが、私も自分の最期を考えたとき、このまま生涯未婚で、母と妹が先に亡くなれば、親族は姪のみになる。まさにKさんは、私の「ひとり死の先輩」であり、私の未来の姿なのかもしれない。

酒井 計史 社会学者、労働政策研究・研修機構リサーチアソシエイト

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さかい かずふみ / Kazufumi Sakai

社会学者。1970年、北海道生まれ。独立行政法人労働政策研究・研修機構リサーチアソシエイト。上智大学・東洋大学・大東文化大学等非常勤講師。上智大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程満期退学。主な研究領域は職業社会学・女性労働論・社会調査方法論。共著にWomen and Work in Asia and the Pacific(Massey University Press)、『非典型化する家族と女性のキャリア』(独立行政法人労働政策研究・研修機構)、『女性とキャリアデザイン』(御茶の水書房)、『国際比較・若者のキャリア:日本・韓国・イタリア・カナダの雇用・ジェンダー政策』(新曜社)、『国際比較にみる世界の家族と子育て』(ミネルヴァ書房)などがある。

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