権力を握る環境が、父から十分に整えられていたのにもかかわらず、なぜ伊周は後継者になれなかったのか。その答えは「環境が整えられすぎていたから」ということに尽きる。
道隆からすれば「父の兼家にしてもらったことを、我が子にもしただけ」と考えていたかもしれない。
だが、道隆と伊周で決定的に違うのは、道隆は父の兼家がいかに不遇の時代を過ごし、そこから陰謀を張り巡らせながら、必死にのし上がったかを見てきたということ。
道長と比べて人生経験が乏しい
いや、ただ見てきただけではない。父・兼家の孫で、道隆にとっては甥にあたる皇太子を一条天皇として即位させるためには、花山天皇を退位させなければならなかった。そのために「花山天皇をだまして出家させる」という前代未聞のプロジェクトを兼家は考案し、道隆自身も参加。三種の神器を運び出して、東宮御所へ移す役割を果たした。
弟の道兼にいたっては、花山天皇をだまして連れ出すという実行役を担っている。もし、失敗すれば、兼家とその家族は、すべて失うことになっただろう。
そんな危ない橋をわたった経験を自らしているからこそ、道隆は5年という短い期間ではあったが、病死するまでの間、権勢を振るうことができたのだろう。過度の飲酒も「父のようにならなければ」というプレッシャーからではなかったか。
順調に出世したと思われがちな道隆と比べても、伊周はあまりに人生経験が乏しかった。ましてや、5男という不遇の立場に生まれたうえに、父・兼家の出世のための死闘や、兄たちの奮闘ぶりを見てきた道長と伊周では、比べようもない。
結果的には「長徳の変」で自滅することになった伊周。だが、そんな事件がなくても、苦労知らずの伊周は、初めから道長の相手にもならなかったのである。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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