パイクカーは、マーチのモデルチェンジが遅れたため、市場の興味をひきつけておくための“つなぎ”の役割とも言われたが、日産にとって重要なモデルになったことは間違いない。
1991年にはNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)と開催したワンメイクレース「ザウルスJr.カップ」のためのレーシングフォーミュラモデル、「ザウルス・ジュニア」のベースにもなった。
1992年になって、マーチはようやく2代目になった。当時は今よりもモデルチェンジサイクルが短く、たとえば「セドリック」などは4年きっかりでモデルチェンジしていた中で、10年というモデルライフは異例に長かった。遅れたのにはいろいろな事情があっただろうが、それだけ「売れたクルマ」だったということだ。
なお、2代目も欧州的なハッチバックであったが、丸みをおびたデザインになり、だいぶイメージが変わって、私は少々驚いた。
Wikipediaのページには、「日本製コンパクトカーの中では異彩を放つ存在であり、日本におけるコンパクトカー市場の革命児とまで称された」と高い評価が書かれている。
「そんなもんかぁ」と、当時「妙に大人っぽくなっちゃったなぁ」と思った記憶を持つ私は、その記述を興味深く読ませてもらった。カブリオレとかワゴンの「マーチBOX」とか、派生車種はどれもカッコ悪いと思ったものだけれど……。
クルマの世界をおもしろくしてくれた
初代がクルマ文化の中に飛び込んだ先鋒だとすると、2代目はマーケットの中で作られたクルマ。「そこが違うんだよなぁ」と思うのだ。2代目もよく売れたクルマではあったが、文化を生み出した点で初代は偉大であった。
1980年代、日産自動車は数々のエポックメイキングなクルマを送り出した。高性能だったりスタイリッシュだったり、特徴はさまざま。
そこにあって、1982年のマーチは地味といえば地味なベーシックカーだけど、上記のとおり多くの派生車種が生まれ、クルマの世界をおもしろくしてくれたのはたしか。この功績は、いつまでも残るものだろう。
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