ハーレーダビッドソンが熱いファンを作る仕組み 直営販売店がなくても顧客との関係性を構築
1950年から1960年代に戦後英国製バイクやその後の日本のバイクが台頭してきます。生き残るため巨大資本AMFの傘下に入ります。1969年ピーター・フォンダ主演の伝説の映画「イージー・ライダー」によってハーレーに乗って米国を横断していく姿は、多くの若者の心をつかみました。
資本力にものをいわせ大きな設備投資をし、生産台数が一挙に5倍近くになります。しかし全体的な品質面が低下し、ユーザー離れと利益の低下をもたらします。過剰生産が今まで築いてきたブランド資産を棄却したのでした。お荷物になったハーレーの売却をAMFは目論みますが、落ち目になったハーレーを買う企業は現れず、ハーレーを愛する13人の経営陣が借金をして買い戻します。
1981年にハーレーダビッドソンは再び独立します。しかしホンダやヤマハや欧州勢などの競合の前に最悪の業績となり稼働率は半分以下になります。
アメリカで唯一生き残ったオートバイメーカーを守るため、アメリカは5年間という期限つきで大型バイクの輸入に関して関税を課します。この間にハーレーは抜本的改革に乗り出し、新技術の導入や従業員関与、統計的プロセス管理、ディラー獲得や顧客維持を支援するプログラムも導入し大きな成果を上げ復活を果たします。中でも顧客との関係性構築に貢献したのは、「H・O・G」とよばれるハーレー・オーナーズ・グループでした。
日本でのハーレーダビッドソン
日本でのハーレーダビッドソンに話を移しましょう。輸入は古く、1917年には宮内省と陸軍にハーレーが納入されていたようです。戦前、製薬会社の三共が輸入権を獲得し、その後国内生産の契約をとりつけました。
1989年にアメリカのハーレーダビッドソンが日本子会社としてハーレーダビッドソンジャパン(以下HDJ)を設立。HDJは1991年にアメリカ・ハーレーダビッドソン100%の完全子会社となり、奥井俊史社長が誕生しました。当初はホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキという世界を席巻する強豪オートバイメーカーがしのぎを削る日本市場では流石のHDJも大苦戦するだろうと思われていました。
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