栗山英樹「信じ切る」に至れば、結果に納得がいく WBC、絶不調だった村上宗隆を出し続けた理由

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ただ、信じているといっても、やっぱり不安になることもあります。大丈夫かな、と思うこともある。野球のような勝負ごとは、その日の調子もあります。

それでもだんだんわかっていったのは、これこそが勝負の綾(あや)になる、ということでした。最終的に信じ切れるかどうか。どこまで本気で自分がそう思っているか。それこそが問われるのです。だから、僕は信じるし、信じ切る。それを大事にしてきました。

WBCの準決勝、メキシコ戦。9回裏で日本は4対5と負けていました。あと3つアウトを取られたらゲームセット。侍ジャパンのWBCは、そうなったらここで終わりでした。しかし、僕は信じ切っていました。選手たちは、きっとやってくれる、と。

不振で苦しんでいた村上

先頭バッターは大谷翔平。メキシコの守護神から気迫のツーベースヒット。翔平はヘルメットを飛ばして二塁まで走りました。そして塁上でベンチに向けて両手を振り上げて鼓舞しました。

続く吉田正尚は四球を選び、これでノーアウト一、二塁。ここで次のバッターは、この日、4打席3三振の村上宗隆になりました。

村上は、WBCの開幕からずっと不振に苦しんでいました。なかなか結果が出ない。この日も、ノーヒットでした。

後に、「どうして、あの場面で村上を代えるという決断をしなかったのか」とメディアから問われることになりました。しかし、僕は代えませんでした。

忘れてはいけないのは、前年の2022年の日本のプロ野球で、村上はあの王貞治さんの年間ホームラン記録を塗り替えていたことです。そして三冠王を取った。あの王さんの記録を初めて抜いた選手なのです。

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そんな選手が打たないはずがない。彼がとてつもない努力をしていたであろうことも僕には想像できました。だから、絶対にいつか調子を取り戻して打つと思っていました。たとえ、それが負けたあとだったとしても。

侍ジャパンは勝つことが使命でした。だから、判断は情に流されてはいけない、と心に決めていました。翔平でも代える、と覚悟していました。ダルビッシュ有にも、「初回でランナー溜まったら代えるぞ」と言っていました。ダルビッシュは笑って「代えてください」と言っていました。

もちろん村上も同じです。だから、代える準備もしてあった。翔平が出塁してから、「バントの準備もさせてくれ」とコーチにも言っていました。誰であっても一番勝つ確率の高い選択肢を用意しながら試合を前に進めていたのです。

栗山 英樹 北海道日本ハムファイターズCBO

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くりやま ひでき / Hideki Kuriyama

1961年、東京都生まれ。東京学芸大学を経て、1984年に内野手としてヤクルト・スワローズに入団。1989年にはゴールデングラブ賞を獲得するなど活躍したが、1990年に怪我や病気が重なり引退。引退後は野球解説者、スポーツジャーナリストに転身した。2011年11月、北海道日本ハムファイターズの監督に就任。翌年、監督1年目でパ・リーグ制覇。2016年には2度目のリーグ制覇、そして日本一に導いた。2021年まで監督を10年務めた後、2022年から日本代表監督に就任。2023年3月のWBCでは、決勝で米国を破り世界一に輝いた。2024年から、ファイターズ最高責任者であるチーフ・ベースボール・オフィサー(CBO)を務める。

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