子供の出世にも差「道長の2人の妻」の大きな格差 倫子と明子、それぞれが道長と結ばれた経緯
源高明の娘は、為平親王の妃でしたが、藤原氏が「高明らが為平親王を擁立して、皇太子・守平親王 (後の円融天皇)の廃立を企んでいる」として、源高明らを中央政界から追放した事件です。
これにより、源高明は、太宰府に左遷されます。廃太子の陰謀があると密告したのは、源満仲でした。源満仲は、清和天皇の曾孫に当たります。摂津多田荘(兵庫県)を本拠とし、多田源氏の祖となる人物です。
安和の変には、平将門の追討で功績があった藤原秀郷の子・千晴も連座しています(千晴は隠岐に配流)。
源満仲は最初、源高明らの一派であったものの、変心し、密告したとも言われています。源高明は3年後に許されて、都に帰ることはできましたが、政界復帰は叶わず、983年に亡くなります。
道長の妻である倫子と明子の格差
源高明の娘・明子は、幼少期に父の左遷に遭遇したのです(明子の生まれ年はわかりませんが、没年は1049年とされています)。
とは言え、不自由な暮らしをしたわけでもなく、叔父・盛明親王の養女になり、親王死去後は、一条天皇の母・詮子(藤原兼家の娘)に引き取られています。
明子は、詮子の弟・道長に惹かれるのですが、道長の兄たち(道隆・道兼)が、明子に恋文を送って求婚してきます。詮子はそれに待ったをかけ、道長が明子に求婚したときには、すぐに許しました。こうして、道長は2人の妻を得るのです。
ところが、明子は、公的な場に顔を出すことはありませんでした。そうした意味でも、倫子のほうが、真の「正妻」ということができるでしょう。
『小右記』は明子のことを「妾妻」と書いています。倫子が生んだ子供は摂関になっていますが、明子の子供は誰も摂関にはなっていません。これは、明子の父が、過去に左遷された源高明であったことも大きいと思われます。同じ妻とは言っても、倫子と明子の間に大きな立場の差があったのです。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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