子供の出世にも差「道長の2人の妻」の大きな格差 倫子と明子、それぞれが道長と結ばれた経緯
将来が未知数の道長に大事な娘をやれるのかというのが、源雅信の見解だったのでしょう。道長は、源雅信という「壁」がありながら、なぜ、倫子と結婚できたのでしょうか。そこには、源雅信の妻である穆子のサポートがありました。穆子は藤原朝忠の娘です。
穆子が「時々、物見などに出かけて様子を見ていますが、道長はただならぬ人物。私に任せてください」と夫を説き伏せて、娘と道長を結婚に導いたとされています。
『栄花物語』は、穆子は道長の将来性を見抜いていたと記しているのですが、この逸話は後世の創作の可能性もあります。道長には兄(道隆や道兼ら)がおり、そう簡単には昇進できないというのが、当時の実情だったからです。そうであるのに、穆子のみが道長の将来性を見抜いていたというのも、疑問が残ります。
父から勘当された道長
さて、結婚前後の道長は2つの災難に遭っていました。987年4月、道長は、車で、義兄(道長の異腹の兄)の道綱と賀茂祭に出かけていました。ところが道長が、見物中の右大臣・藤原為光の車の前を通ったときに、為光の従者たちから石を投げられます。
道長と道綱はこの出来事を、父・兼家に訴えます。事態はどう動くのかと思われていた矢先に、為光の家司が詫び状を送りました。そして、為光も兼家の邸に向かいます。ところが、為光は兼家とは対面できなかったようです。為光は、摂政・兼家の威光そして後難を恐れたことでしょう。
988年12月には、道長に再び災難が襲います。なんと兼家から勘当されてしまうのです。賀茂臨時祭の予行演習で、道長の従者らが舞楽の奉仕者を捕えたのが、その理由でした。
『小右記』には「勇敢な従者らを放ち」とありますが、なぜ道長がそんなことをしたのかはわかりません。しかし、それが理由で、道長は父・兼家から「勘当」されてしまうのでした。
災難続きのように見えますが、もちろんいいこともありました。
988年に、道長の妻・倫子が娘を生んだのです。この娘は彰子、後に一条天皇の皇后になられます。
さらに、道長にとってもう1つのうれしい出来事がありました。新たな妻を得たのです。
『大鏡』に「道長には北の方が2人おられます」とあるように、道長には正式な妻が2人いました。1人は源倫子。もう1人が、源明子です。
明子の父は、源高明です。源高明は醍醐天皇の皇子でしたが、源姓を与えられて臣籍に下ります。そして、権中納言・中納言・大納言・右大臣・左大臣と昇進していくのです。
ところが、そんな源高明に不幸が訪れます。969年、「安和の変」の勃発です。
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