紫式部がつづる女流作家「清少納言」への"対抗心" ほぼ同時代に生き、同じような地位・立場だった

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清少納言は西暦966年の生まれで、1025年没とされています。対するに紫式部は、973年生まれとされていますから、清少納言のほうが7歳年上です。職業というか、職場も宮廷の女房ということで、同じような地位や立場です。

紫式部と清少納言は知り合い?

では、「ふたりは知り合い?」と思うかもしれませんが、直接言葉を交わしたとか、手紙のやりとりをしたことはないようです。というのも、宮廷につとめていた期間が、微妙にちがっているからです。

清少納言が宮廷に出仕したのは、西暦993年から1000年で、紫式部は1005年から出仕したと言われていますので、そこには6年の差があります。

しかも紫式部の初出仕のときにはすでに、清少納言は超有名な作家になっていたのです(『源氏物語』も、紫式部の出仕前から一部で読まれていた、との説もありますが)。

一条天皇の寵愛を受けた定子(ていし)皇后は、才色兼備の女性ばかりをあつめて、「定子サロン」をつくりあげていました。

どんな集団も、たとえば1つの会社やお店でも、リーダーがしっかりしていれば、社員や店員も皆、きちんとしています。1人の応対ぶりがよければ、他の者の態度もよく、「それも、リーダーしだい」というわけでしょう。

「定子サロン」のリーダーはもちろん、定子皇后ですが、現場で一同を仕切る役、とくに余興や即興、オマツリ事の中心には、いつも必ず清少納言がいたようです。

一条帝は、そんなサロンの雰囲気を、とても気に入っていたと言います。

清少納言は歌人であり、随筆家(エッセイスト)です。紫式部は物語作家ですから、文学的なジャンルは異なります。

当時、物語の評価はあまり高くありませんでした。女・子どもが読むもので、大人の男性からは鼻であしらわれるような絵空事としか思われていなかったのです。

平安時代の主流は、日記文学でした。紀貫之の『土佐日記』、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の『蜻蛉(かげろう)日記』などがよく知られています。紫式部も「物語」だけではなく、「日記」を書き残しています。

その『紫式部日記』(角川ソフィア文庫/山本淳子編訳、以下同じ)のなかに、こんな記述があります。

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