筆者のもとには「厳しいしごきにも耐えたが、大学4年間、一度も試合に出なかった。でもその4年間があったことで、今は一流企業に就職できている。4年間の忍耐は決して無駄ではなかった」と、体罰、パワハラ体質を肯定する声が届いている。
暴力、体罰が続いた背景には、それを肯定的に見る認識があったということか?
「まさに体育会にいることで、就職に際してインセンティブが働くようになったのだと思います。辛くて理不尽なだけだと普通は耐えられないと思うんです。事実、多くの人が耐えられなくてドロップアウトしていくんですが、それに耐えた先に一流企業就職みたいな人参がぶら下がっていた、ということではないでしょうか。
高度経済成長期には慶應義塾大学とか明治大学の野球部の選手は、望めば一流企業に就職できる体制ができていたんですね。こうした体育会就職はすでに大正期には始まっていた。つらかったけども、それに耐えたから一流企業に勤めることができた、みたいなことが繰り返されて、体罰、しごきみたいなものも、それに耐える意味があるんだよ、と価値づけされる。暴力的な指導を肯定する仕組みができたと思うんですね」
プロ野球選手などの自伝から統計調査
筆者が取材をしてきた実感でいえば、指導者から「体罰、暴力を振るったか?」を聞き出すことは、簡単ではない。今のご時世、どんな状況であっても暴力を肯定することは社会常識として許されないからだ。昔の指導者に話を聞いても「そりゃ若いころは無茶もしたよ」と言うのが関の山で、具体的に暴力を振るったかどうかを聞き出すのは難しかった。
その部分を本書では、プロ野球選手など有名な野球人の「自伝」に注目し、138人もの自伝を通読して、その中から「体罰、暴力行為」についての記述を抜き出し、統計を取っている。それによれば、旧制、新制中学、旧制高校、新制大学、社会人、プロを通じて体罰の経験がある人は50.4%に上るという。
「近年は、配慮して書かなくなりましたが、昔は、暴力などについて本の中でも包み隠さず話していました。その頃は、体罰などは問題でも何でもなかったですから」
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