期待が裏切られたときほど、人生で苦しい時期もないだろう。花山天皇が突然、出家したのは寛和2(986)年。紫式部が16~19歳頃のことだ。
懸命に役職に就こうとはするものの、何かと人生がうまくいかない父。その背中を、娘としてどんな思いで見つめていたのだろうか。残念ながら、紫式部がどんな少女時代を送ったのかはよくわかっていない。
ただ、残された和歌をみると、孤独でふさぎ込んでいたということでは、どうやらなさそうである。
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影」
小倉百人一首の57番として収録されているので、耳にしたことはあるかもしれない。『新古今和歌集』では、この歌を詠んだ背景として、紫式部がこう振り返っている。
「はやうより童友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、七月十日のほど、月にきほひて帰りにければ」
(かねての幼友達と、長い時を経て、偶然出会ったが、確かにそうだとはっきり見分けもつかないうちに、陰暦の七月十日ごろ、夜半の月と競いあうようにして帰ってしまったので)
このように、和歌や俳句の前書きとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したものを「詞書き」(ことばがき)という。
議論がなされてきた「童友だち」
この「童友だち」とは誰なのか。いち早く『源氏物語』の現代語訳に挑んだ歌人の与謝野晶子も含めて、さまざまな論者による議論がなされてきているが、はっきりとしていない。
ただ、心を許した幼友達や、相談を持ちかけられるような間柄の友人がいた様子は、紫式部が詠んだとされる和歌から読み取ることができる。
もっとも、早くに母を亡くし、父の仕事もままならない境遇を考えれば、紫式部のほうこそ、友人に相談したいことだらけだったに違いない。
しかし、為時が空しく職を失ってから10年後の長徳2(996)年、人生は動く。ついに待望のポストが与えられることになったのだ。
為時は、宮中の人事が行われる際に「受領になりたい」と希望を出していたが、その願いが受け入れられることになる。受領とは、地方官である国司のなかで、現地の支配を行う最高責任者のことだ。
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