「他人と比べない生き方」では幸せになれない スクールカーストも比較の回避から生まれた
友達が多く、クラスのリーダー格の人間が一軍などと呼ばれ、そのフォロワーで一見みんな仲良くやっている人たちは二軍、その仲間に入れない、あるいは、入れてもらえない人は三軍ということになったりする。
自力でどう頑張っても、相手が受け入れてくれるかはわからないので、カーストとされるわけだ。
しかし、二軍にいる人も(一軍ですらそうかもしれない)、何らかの形で、クラスの空気を乱したとか、あいつはイケてないとされると、すぐに、この「友達の輪」からはずされてしまい、三軍落ちになってしまう。
「既読スルー」に潜むカースト
教育評論家の森口朗(もりぐちあきら)氏は、現代型のいじめは、マスコミが報じるような暴力型のいじめは、むしろまれで、二軍から三軍に落とす形のものだという。ある日突然、自分が送ったLINEがいっせいに既読スルー(読まれているが返事がない)の憂き目にあったり、クラスの友達からメールやLINEが送ってこなくなったりするのだ。
こうしたいじめは、かなり対応が困難だ。
わざと返事をしないのか、わざと送らなくなったのかの認定がかなり難しいこともさることながら、自分が仲間外れであると認めてしまうと、友達の数が多いほど、人間性が素晴らしいと思われている若者文化の中で、自分を欠陥品と認めたようになってしまうからだ。
どのような形で競争を復活させるべきかについては後述するが、「競争回避教育」が、さらにいびつな形を生んでいることは注目すべきだろう。
この手の競争には勝てないと端から思っているコミュニケーション能力の低い子供たちは、ネットの世界で競争をするのだろう。ゲームでなら勝てると思って、どんどんはまっていくゲーム依存なども競争回避型教育の副産物と言えるかもしれない。
第2の問題点は、はたして競争で負けるなどして、心が傷つくという体験をしなければ、人間の心の十全に育つのかということだ。
少なくとも、コフートの答えはNOだ。
自己愛の傷つきは心に悪いが、自己愛が満たされないと、心の十全に成長しないし、野心も育たない。
アドラーにしても、優越性の追求が満たされることの心の発達への好影響を論じている。
心が傷つくことを恐れて、一切の競争をさせなくなってしまえば、スクール・カーストのような問題が生じないとしても、やはり人間の心は十全に成長しないと私も感じる。
実際、競争回避型のクラスにいる人間が、実力主義の進学塾に入ったり、あるいは、競争型のスポーツクラブに入ることで生き生きすることは多い。負けるかもしれないが、勝てる可能性があり、現実に勝つという体験をすることで、人間の野心や心理がさらに成長を求めるのだろう。
ただ一方で、この手の進学塾でも、あるいは、実力主義のスポーツクラブでも、やはりそこにうまく適応できない子供、端的に言えば競争に負けてしまった子供の心の傷つきが問題になっていることは事実だ。
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