敗戦国のドイツやオーストリアでは、ケインズの名声は否応なく高まった——同時代にオーストリアの大蔵大臣を務め、ヴェルサイユ会議の内容に憤慨していたシュンペーターは本書への称賛を惜しまず、ケインズのもっとも偉大な著作であると繰り返し言及することになる——が、フランスでの評価は低く、ケインズの影響力のせいでドイツを十分に弱体化できなかったことが、後にナチスドイツの台頭を招いたのだ、とする論難の書まで生むことになった。
その後も、第一次大戦の終わらせ方が正しかったのかをめぐる論争において、『平和の経済的帰結』は繰り返し取り上げられることになるだろう。ケインズの慧眼を評価する声がある一方で、状況認識の甘さや間違いを指摘する声も後を絶たない。第一次大戦の勃発から今年は110年目となるが、その終結となったヴェルサイユ条約を論難した『平和の経済的帰結』の評価は、今も完全には定まっていない。その意味で、本書は今もなお問題含みの書である。
第一次大戦前夜と現代の共通点
ちなみに、本書を出版した段階で、ケインズはいまだ経済学の体系書をものしていない。経済学のインナーサークルではそれなりに知られていたケインズが、世界的な経済学者と見なされるようになるのは、本書を出版して以後のことである。1920年代には数々の時事論文で注目を集め、1930年代には『貨幣論』や『雇用、利子および貨幣の一般理論』で経済学の歴史に不朽の名声を刻み、第二次大戦後のブレトンウッズ会議では戦後経済秩序の設計者の一人として獅子奮迅の活躍をすることになる。
そして没後から80年近く経った今でも、現代的な諸課題への考察を先取りしていた経済学者として、墓場から何度も呼び戻されている。この偉大な経済学者の名声を、最初に確立することになった『平和の経済的帰結』が、第一次大戦の勃発から110年目にあたる今年、山形浩生氏の読みやすく清新な日本語訳によって現代に蘇ることになった。
訳者解説にもあるとおり、本書の出版は2024年の現在において、きわめて時宜に適ったものと言える。ロシアのウクライナ侵攻はいまだ帰趨がはっきりしないまま、泥沼の状況を呈している。イスラエルのハマス掃討作戦は、中東情勢のさらなる混乱を予示している。アメリカと中国の衝突はエスカレートを続け、時あたかも第一次大戦前夜を思わせるものとなっている。
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