「誰かを罰するのは当然か」問う『失敗の科学』 ベテラン機長が"容疑者"になった航空機事故
前述のシンプルなレポートでは、事故は機長の責任に見えた。なにしろ、彼は規定を超えて機体を降下させたのだから。
しかし詳細なバージョンを注意して振り返ってみると、新たな全体像が現れる。次から次へと予測不可能な問題が起こる中、機長が直面した厳しい現実を感じ取ることができる。
すると突然、彼は困難な状況下でベストを尽くしたパイロットに見えてくるのだ。完璧ではなかったかもしれないが、犯罪に値する行動はなかった。
この事故について、私は大勢のパイロットや航空調査員、さらに監督機関の関係者と話をした。彼らの見方はそれぞれ異なっていたが、機長を非難するのは間違いだという点では、皆意見が一致していた。
「誰かが罰せられるべき」の非難は必要か
ブリティッシュ・エアウェイズが彼に責任を負わせたのも、英国運輸省民間航空局の弁護士が彼を告発したのも間違いだ。
もしパイロットがこんな風に不当に非難されるとなれば、誰も自分のミスやニアミスを報告しなくなり、これまで航空業界にすばらしい安全記録をもたらす源となっていた貴重な情報は表に出てこなくなる。
だからこそ絶対に、単なる営利的・政治的な都合で非難に走ってはいけない。たとえ非難が必要な場合があったとしても、必ず現場の人間が直面する複雑な状況を熟知した専門家によって、適切な調査を行うのが先決だ。
事故の裁判で陪審団は、事実を鑑み最善の判断を下す努力をした。しかし、濃霧の中を時速約200マイル(約320キロメートル)で航行していた機長が下したとっさの判断について、法廷で落ち着いた評決を下すのは難しい。
「悲劇が起こった(あるいは危うく起こりそうになった)のだから、誰かが罰せられるべきだ」と非難合戦を始めるのは、驚くほど簡単だ。この事故はその容易さを我々に教えてくれる。
しかし、ミスに対して前向きな態度をとることで定評がある航空業界でさえ、非難の衝動と完全に無縁ではなかった。
これはつまり、我々が非難の衝動と決別するためには、相当な努力と覚悟が必要となることを意味している(有罪となった機長は深く傷つき、事故から3年後、自ら命を断っている)。
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