「友だちがいないのは悪」という学校教育の弊害 「ぼっち」にネガティブな先入観を持つ理由
しかし、友だちをたくさんつくることは学校生活の本来の目的なのでしょうか?
これは、議論の余地があるかもしれません。
社会人になってからは、友だちという存在をそれほど強く意識させられることは少ないでしょうが、学校生活のなかでは、友だちの有無が突然クローズアップされることがあります。とても面倒な瞬間ですよね。
学校は、数多く存在する集団のうちのたったひとつ
例えばそれは、学校行事や体育の時間、また具合の悪くなったときなどであることでしょう。先生から、「ふたり一組でペアを組みなさい」「好きな人同士でグループになりなさい」「保健室(もしくは自宅)にいる〇〇さんに、一番仲のいい人がプリントや荷物を持っていってあげて」などと指示されるシーンがあるでしょう。そんなとき、わたしがそうだったように「仲のいい友だちがいない」場合は、ちょっと面倒なことになります。
まあ、大して困りはしないのですが、先生が荷物やプリントを保健室に届けてくれたり、「余った人同士でペアを組みなさい」という指示に従ったりするという解決策がとられることになり、やや気まずい。
こうした出来事が繰り返されると、「友だちのいない人=人に迷惑をかけるやつ」「余りものはやっかい者だ」とみられてしまうというわけです。
学校は、友だちという社会関係資本の多寡に重きを置いてヒエラルキーをつけようとする、非常にアンフェアな環境と考えることもできます。
学校生活において無意識のうちにそのような価値観が刷り込まれ、それが固定されてしまった人がいるのなら、とても残念なことです。学校は、数多く存在する集団のうちのたったひとつでしかなく、そこでの基準が全世界に通用する基準ではないからです。
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