「友だちがいないのは悪」という学校教育の弊害 「ぼっち」にネガティブな先入観を持つ理由

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

ぼっちには、前項で述べた「ひとりでいたくないにもかかわらず、不本意ながらひとりでいることを強いられている」ということ以外にも、ニュアンスの違った意味があります。そこに、ぼっちという言葉が嫌われる、また別の理由があるのではないかと思うことがあります。

社会が生み出す「ぼっち」へのネガティブな先入観

ぼっちとは、「ひとりぼっち」を略した言葉です。

漢字で書くと「独法師」で、「宗派に属さない単独のお坊さん」のこと。

由来となった言葉それ自体には、もともとはネガティブな意味はなかったと思いますが、時代を経て、組織・集団に属せないためにひとりである状態を選択せざるをえないという、孤立させられているかのような暗さを伴うイメージがついたと考えられます。

いわば、好き好んでぼっちを選んでいるのではなく、やむをえずぼっちでいる状態といえるでしょうか。

自分自身が「ぼっちの状態を望んでいない」から、同じようにひとりでいる人に対して、あたかも「誰にも受け入れてもらえない社会性のない人」として、無意識的に同情するような視線を向けてしまうのかもしれません。

「ぼっちはイタイ」「ぼっちはみじめ」という言葉には、ひとりでいる人はなにか問題がある人で、排除された人であり、自分はそうは思われたくないという強い拒絶の意志が組み込まれているのではないでしょうか。

ぼっちに限らず、「人付き合いが下手」もしくは「人嫌い」といった言葉は、どこか本人に落ち度があるような、ネガティブな言い回しとして使われてしまっています。

そして、一度でもそのようにみなされると、まわりの人たちはその人をあたかも触れてはならないケガレのように扱い、積極的に集団や共同体から排除するか、社会的ヒエラルキーの下層に位置づけようとします。

それゆえに、ぼっちやさみしい人に対して、誰しもが受け入れがたいニュアンスを感じてしまうのでしょう。

次ページ友だちがいないのは悪?
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事