元吉本社員が激白「M-1第1回は無理ゲー」だった訳 お笑い好きの生命科学者が読む「M-1誕生秘話」

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長々と自分の思い出話を書いてしまったけれど、この本を読みながら、記憶の確認にと「M-1グランプリ」のウィキペディアをチェックしていた。その詳細さに驚いた。いったい誰が書いているのか。ひょっとしたら、著者の谷良一さんも手をいれておられるのかもしれない。

谷さんは私と同世代、1981年に京都大学の文学部を卒業して吉本興業に入社した。いまでこそ吉本興業といえば大エンターテインメント企業だが、アホなことをしたら「吉本へ行け」と叱られていたころだ。京大卒での入社は異例のことだったろう。

M-1の始まりは常務からの無理難題

1992年から1998年は間寛平の東京チーフマネージャーを務めたりしていたが、入社後20年たったころには制作部の総務デスクでくすぶっていた。そんな谷さんに、木村政雄常務から「部署を横断して漫才を盛り上げるプロジェクト」のリーダーをせよとの業務命令が下る。細かい指示など何もない。それが『M-1はじめました。』の始まりだった。

1980年から1982年にかけての漫才ブームが終わり、漫才は氷河期に入っていた。まず手始めにと聞き取りをした漫才師たちはみな漫才を愛していた。それに、漫才を聞いてまわってみたら意外なほど面白かった。しかし、漫才に対する需要がなかったのである。それを盛り上げろというのだから相当な無理難題だ。

そのうえ、リーダーをせよと言われたが、最初は1人だけだった。後に、木村の命令により、2年後輩で「グリコ・森永事件」のモンタージュにそっくりな後輩、橋本とコンビを組んでプロジェクトを担当することになった。キャラの違う漫才コンビが練れてくるようなものだろうか。最初はいまひとつしっくりいかなかったが、次第に2人の息があってくる。

「若手の漫才コンテストをやったらどうや」
「優勝賞金を1000万円にしよう」

何をするか決まっていなかった「漫才復活プロジェクト」を具体化できたのは島田紳助の言葉が決め手だった。反社との付き合いで引退を余儀なくされた紳助だが、さすがに尋常な勘ではない。わずか8年で漫才をやめてピンで活躍していた紳助だが、いや、そんな紳助だから、漫才愛が煮えたぎっていたのかもしれない。

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