正論を吐く人は「リーダーの器」がないといえる訳 坂本龍馬や西郷隆盛に学ぶ白黒をつけることの愚

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白黒をはっきりさせることは心理的には気持ちがいいことです。いわゆる正論というやつですね。しかし、正論は聞いている分には爽快ですが、多くの場合、空論です。実際に実行できるかというと難しい。国会で野党ができもしない政策を声高に叫んでいるのが最たるものです。

対立や矛盾を小さくするというのは、得てしてグレーですっきりしないものです。だからこそ、それを「誰が」行うかが重要になるわけです。すっきりしない部分を「誰が」というところで補うわけです。

坂本龍馬が西郷隆盛を評した言葉

かつて明治維新の立役者、勝海舟のお膳立てで西郷隆盛に会った坂本龍馬が西郷を評した言葉に、

「西郷という男はよくわからぬ男だ。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」

というものがあります。西郷隆盛は自分の考えに固執することなく、相手の意見を聞き、その中でその都度判断をする人物です。一見すると、思想や信条がないように見えます。西郷の盟友であった坂本龍馬にも同じことがいえました。

龍馬は、尊王から開国、倒幕から大政奉還とコロコロと立場を変えます。しかし、それは尊王や倒幕という視座の位置の人から見ればという話であって、龍馬の視座は「日本を良くする」という位置でしたから、龍馬にとっては立場が変わっているわけではなく一貫しているのです。

西郷隆盛も全盛期は「薩摩」の利益を追求しながらも常に「日本」に視座を置いていました。だからこそ、徳川慶喜の首を求め、江戸城総攻撃を主張する官軍を抑え込み「江戸城の無血開城」を成し遂げたのだといえます。

その「視座」と同じく重要なものが、「視座」と対になる「価値観」です。単純に視座だけではなく、その視座から見た景色がどんなものであるかが明確に描けている必要があります。視座やそこから見た景色は、簡単に共有できるものではありません。だからこそ、人はそれを「見ることのできる」リーダーを求めるのです。

最近はそういったリーダーは少なくなっているような気がします。皆、細かいマネジメントですべて白黒をつけて、目の前の目標だけを追い続けて、常に部下と同じ視座で考えるリーダーが多いのではないでしょうか。視座を下げることがだめなことではありません。指導において視座を下げる、目線を合わすということは技術の1つです。しかし同時に高い視座で常に見続け、そこから見える景色の中で判断をすることこそが「人望のあるリーダー」の姿なのです。

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