豊臣秀頼が「徳川家康に臣従しなかった」裏事情 二条城会見での家康の行動から謎を解き明かす

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後陽成天皇の譲位は、同年3月27日に行われた(後水尾天皇の即位は、4月12日)。家康は、2月26日には、上洛途上の規定を定めている。供の者の脇道を禁じ、放談・高笑い・大酒・遊興を禁じたのだ。

そして、3月6日に駿府を立った。3月17日には京都に到着、二条城に入る。翌日には、武家伝奏(朝廷と幕府の間の連絡にあたった朝廷の職名)の広橋兼勝と勧修寺光豊が二条城に来訪。家康は彼らに、上洛の目的(将軍・徳川秀忠の名代として即位の礼の沙汰を行うこと。徳川家の祖・新田義重に鎮守府将軍、自らの父・松平広忠に大納言の官を贈ってほしいこと)を告げた。

家康の後者の要望は3月22日にかなえられ、新田義重に鎮守府将軍、松平広忠には権大納言が贈位された。

3月23日、家康は紫宸殿にて後陽成天皇と対面、家康は天皇に銀100枚などを献上した。その4日後に譲位が行われ、後水尾天皇が誕生する。

その頃、豊臣秀頼は大坂を発ち、淀に到着。家康の子息の義直・頼宣、池田輝政や加藤清正が秀頼を出迎える役目をした。

秀頼の上洛は、秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599)正月、伏見から大坂に移ってから初めてである。秀頼が大坂を発つとき、その場所に「後光がさした」(『当代記』)という。

互いに上席を譲り合った家康と秀頼

3月28日。いよいよ、家康・秀頼対面の日である。秀頼は片桐且元(豊臣家臣)の京都屋敷で衣装を改め、二条城に入った。家康は庭まで降りて秀頼を出迎えた。これに秀頼は丁寧な礼を述べたという。家康がまず御殿に入り、秀頼を庭から御殿に上げた。

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京都二条城の庭園(写真: えんさん / PIXTA)

家康は秀頼に、秀頼を先に「御成之間」に入れて、その後家康が登場。家康と秀頼が対等の立場で礼をしようと提案した。ところが秀頼はそれを固辞。家康が「御成之間」に参ることになった。お互いが上席を譲ろうとしたが、最後には秀頼が家康に上席を譲ったのだ。

美麗な料理でもてなすこともできたが、それではかえって打ち解けないと思い、料理は吸い物など簡素な食事が出ただけであった。

このとき、北政所も二条城に来ており、相伴した。秀頼から家康に、太刀・金子などが贈られた。家康は秀頼に鷹・馬を贈った。会見終了後、秀頼は豊国神社に参詣し、方広寺大仏殿の普請を見学してから大坂に戻る。

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