豊臣秀頼が「徳川家康に臣従しなかった」裏事情 二条城会見での家康の行動から謎を解き明かす

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家康と秀頼の二条城での対面は、概ね次のように評価される。「この対面は秀頼の家康への臣従を思わせるものだった」「家康が秀頼を二条城に迎えて挨拶を行わせたことにより、天下に徳川公儀が豊臣公儀に優越することを知らしめる儀式であった」と。

確かに、家康は会見において秀頼に配慮をしている。「御成之間」に秀頼を先に入れようとしたこともそうだ。しかし、秀頼はそれを受け入れるわけにはいかない。立場は家康の方が上位だからだ。

家康もそのことはよく理解しており、自発的に秀頼が自ら(家康)に挨拶(拝礼)するよう仕向けたとも言えるだろう。

その一方で、このような見解を否定する向きもある。家康は秀頼を庭上まで出迎えている、これは最高の礼遇だ。「臣従の強制」などではないというのだ。

秀頼の家康への拝礼に関しても、秀頼が自発的に行ったものであり、臣従礼ではなく「舅に対する孫婿の、従一位(家康)に対する正二位(秀頼)の者の謙譲の礼」だとする。

二条城会見は、秀頼の家康の臣従、もしくは臣従を思わせるものだったのか。この問題を考えるうえで参考になるのが、同年4月12日の家康の行動である。

家康が諸大名に誓約させた3カ条の中身

同日後水尾天皇の即位礼が紫宸殿で執り行われたが、家康はそれを拝観。その後、家康は在京の諸大名(22名)を二条城に集め、3カ条を誓約させた。

それは「源頼朝以後、代々の将軍家が定めてきた法式を奉じ、江戸の将軍・秀忠の法度を堅く守ること」「法度に背き、また上意を違えた者は、それぞれの国に隠し置いてはならない」「抱え置く侍が反逆・殺害人であることを告げられたならば、その者をかかえないこと」という内容だった。

その3カ条は「慶長十六年の三カ条誓詞」と言われ、武家諸法度の先駆とも言われている。

細川忠興・池田輝政・福島正則・島津家久・黒田長政・松平忠直・藤堂高虎ら北国・西国の大名(ほとんどが外様大名)が誓約している。この三カ条誓詞に、豊臣秀頼は署名していない。

よって、秀頼はほかの大名とは「別格」であり、徳川の支配に組み込まれていないとも指摘できるだろう。

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