「麦飯と言えばとろろ」日本の定番ご飯の裏事情 いつからとろろをかけて食べるようになった?
現在の麦飯の主流は、大正時代に登場した「押し麦」を使うものです。
押し麦とは、大麦を精白し匂いを取り去り、米と同じ時間で炊きあがるように蒸してローラーで圧延し平たくしたものです。
大正時代以前の農村では、大麦を「えまし麦」に加工してから麦飯にしました。
えまし麦とは大麦をいったん煮て、その煮汁を捨てたものです。そうすることで嫌な匂いが煮汁とともに流され、米と同時に炊きあがるようになるのです。
大正時代以前の江戸などの都会では、大麦を石臼で挽いて細かくした「割麦」を使いました。細かい粒にすることで米と同時に炊きあがるのですが、この方法では大麦の嫌な匂いは残ってしまいます。
この麦飯に残った嫌な匂いをカバーするために、都会ではとろろ汁やだし汁をかけて、美味しく食べる工夫をしたというわけです。
それではなぜ、江戸などの都会では匂いのしないえまし麦ではなく、匂いのする割麦を麦飯に使ったのでしょうか?
えまし麦は大麦をいったん煮るための燃料費がかかります。都会ではこの燃料費が問題となったのです。
燃料費が圧迫していた江戸の家計
栗原柳庵の『文政年間漫録』には、当時の大工一家3人の生活費が記録されています。
年間の米代が銀354匁、家賃は四畳半二間で120匁、燃料代と調味料が700匁。調味料代込みではありますが、燃料には米代の2倍、家賃の5倍以上の費用がかかっていたのです。
農村では燃料は里山などから自給するので、えまし麦を煮る燃料費は問題とならなかったのですが、江戸では燃料費の節約のために割麦が選択されたのです。
江戸などの都会では、おおよそ元禄時代頃から白米食が中心となりますが、これも燃料費が関係します。白米は早く炊きあがる、つまり燃料費が安くすむのです。
都会で玄米やえまし麦の麦飯ではなく白米を食べるようになったのは、燃料費の高さが原因であると、有薗正一郎(『近世庶民の日常食』)や宮本常一(開国百年記念文化事業会編『明治文化史第12巻』所収「飲食と生活」)は主張します。
燃料費だけでなく、大麦自体の価値も、農村と都会では異なっていました。
農村においては、米は年貢の対象であると同時に、商品を購入する際の通貨としての価値もありました。そのために安い大麦を混ぜ込んだ麦飯を食べ、米を節約したのです。
都会においては、輸送費や流通費、加工費が上乗せされるからか、大麦は米と比較しそれほど安いものではありませんでした。
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