「徳川家康の暗殺計画」殺害を目論んだ武将の正体 家康の声望が高まる中で起きた大きな危機
それにしても、家康はなぜ大坂城に居座ったのか。
1つには、豊臣方の者を威圧する考えもあったであろう。家康は藤堂高虎に命じて、自身が入居した大坂城西の丸の曲輪内に天守を築造する。これは「天守閣を造築して、自らが秀頼と並び立つ存在であることを天下に誇示」せんとしたためとも言われる。
家康は暗殺計画に乗じて、大坂城に入り、影響力をさらに大きくしたのだ。家康暗殺の首謀者と疑われた者たちは罰を科された。土方雄方は常陸国に配流、大野治長は下総国に配流、浅野長政は奉行職を解任され、武蔵国で蟄居(謹慎)。死罪でなかっただけましであろう。穏便な罰であったのは、厳罰を科して、豊臣家を刺激することを避けたと思われる。
しかし、家康は前田利長にだけは、強硬な態度で臨もうとした。諸大名に対し、北陸出兵を命じたのだ(10月3日)。利長が城郭を修築し、兵器を集積することに謀反の疑いをかけたのである。
難を逃れた細川家の一方で…
家康自らも出陣する心づもりでいた。ちなみに、謀反の疑いは、利長の縁者にもかけられた。その縁者とは細川忠興である。忠興の子・忠隆の妻が前田利家の娘であり、利長の妹(千世)であった。
忠興の父・細川幽斎は、異心なきことを家康に誓い、忠興もまた家康に誓紙を差し出した。忠興の3男・光千代(忠利)は江戸に送られ、人質となった。
こうして、細川家は難を逃れた。前田利長も、討伐されると聞いて驚き、家臣の横山長知を家康のもとに派遣する。謀反心のないことを主張したのである。
家康はこれを受け入れたが、謀反心のない証として、利長の母・芳春院を江戸に送るよう要求。利長は要求を呑まざるをえなかった。これをもって「五大老」の一員であった前田氏は、家康に屈服させられたのであった。
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